たく云えば観衆は、何も舞手に山の方向や形状を教えてもらわなくてもいいので、そんなものが実在していない事は皆知っている。指したとてその方をふり返るものは一人も居ない。それよりも、その舞手が山に対した気持を如何に描きあらわすか……はるかに山に対した人間の詩的情緒を、如何なる姿態美の律動によって高潮させつつ表現するかを玩味すべくあくがれ待っているので、その美的律動に共鳴して演者の美的主観と自分の主観とを冥合させ、向上させ、超越さすべく、あくがれ望んでいる……数百千の観衆が息を凝らしている……型の種類なぞは寧ろどうでもよろしい。期待するところはその演者の情緒の律動的表現から来る霊感である……というのが見物の心であると同時に舞手の心に外ならぬのである。
 だから、もっと進歩した表現になると、只一歩不動の姿勢のまま進み出ただけで、あらゆる心持があらわされ得る事になる。否。更にもっと進んだ型になると、突立ったまま、もしくは座ったまま全く動かなくともいいことになるので、現に能の中には、そうした無所作の所作ともいうべき型によって、格外の風趣を首肯させて行くところが非常に多い。
 又節調の例で云えばシオリとても同様である。
 たとえば嬉しさを表現する時には躍り上るような音階を通じて最高音に達し、悲しみをあらわす事には嫋々《じょうじょう》切々として、ためらいつつ最高音に達するように節づけたとする。又最美の姿を咏嘆しあらわすには円味をもった、柔らかな変化を以て最高音に導き、曲の段落を高潮させるためには急角度の変化を以てしたとする。しかしそれはいずれも音でもって感情や風物の感じを模倣しただけのもので、芝居の科白《せりふ》が悲しい時に泣き、腹を立て怒号する真似をするのと皮一重の相違でしかあり得ない。舞の芸的主観の洗練味を極度まで要求する能の舞台面では、それが却《かえ》って不自然な、充実しない表現になって終う。曲の終末のクライマクスを現わす最高音でも同様で、ヤタラに高音を連続し、又は突然急調の変化を用いて観衆を刺戟するのは弱い方法であると同時に、そんな無茶な事は肉声では出来難い。だから、自然に、楽に発し得る肉声を次第に高くしてその一部に最高音……もしくは最高音を指す曲線をあらわし、又自然に平音に復する……という声の型を作ってこれをシオリと名付ける。そのシオリと名付ける声の型を、前に述べた色々の心持ちで謡う時は、その通りの気持が、前の模倣的な節扱いよりも遥かに自由自在に、且つ切実に、深刻にあらわれる。すなわち声の定型の妙味は、舞の定型の妙味と少しも違わない。

     不自然、不調和、不合理の美

 以上は能の舞、謡、囃子に定型的な……無意味なものが何故に多いか。それが何故模倣、写実の千差万別的な表現よりも変化が多いか。直説法式に深刻な舞台効果をあらわすか。演者と観者の主観を一如の美しさに結び付けるかという理由の一端を、辛《かろ》うじて説明したものである。
 しかし、能の各種の表現には、以上の如き説明も及ばない全然無意味、不合理、もしくは不調和と見えるものが決して些《すくな》くない。
 何等の感激もないところに足拍子を踏む。美しい風景をあらわす場合に、観客に背中を向けて歩くという最も舞台効果の弱い表現をする。最も感激の深かるべきところを、一直線に通過する。そうかと思うと、格別大した意味のないところで技巧を凝らすなぞいう例がザラに在る。能楽が無意味の固まりのように思えるのは無理もない。
 ところがよくよく味わってみると、その無意味な変化は、全体の気分の上から出て来たものであったり、又は不合理、不調和に見えたものは、表現の裏の無表現でもって全体の緊張味を裏書きしたものであったりする事が折りに触れて理解されて来る。そうしてその無意味、もしくは不調和な表現ほど能らしい、高潮した表現に見えて来るので、能はここまで洗練されたものかと、屡々《しばしば》歎息させられる。
 欧米の近代芸術は単純、無意味、不調和、もしくは突飛な線や、面や、色彩を使って、人力で表現し得べからざるものを表現すべく試みているようであるが、そのような表現法も能は到る処に試みているので、寧ろ能楽の最も得意とするところである。
 とはいえ、斯様《かよう》にして洗練されて来た、舞、謡、囃子が、どんな風に集まり合って能を組み立てているか……という具体的の説明は依然として絶対に出来ないと思う。日本に生れて日本の詩歌伝説に共鳴し、日本語の光りと陰影に慣れ親しみ、八拍子の序破急に対する感覚を遺伝し、舞のリズムと打音楽の調和を喜び得る純日本人ですら、能を見物して唯よかったとか、悪かったとか云うだけで、何故という質問に答え得ない位だから――。
 能のわかるアタマは特殊のアタマとさえ考えられている位だから……。
 けれ
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