びである……とか……ここが大切な処である……とか……これから曲の気分がかわる……とか……これで一段落である……とかいう心を如実に見せ、又は山川草木、日月星辰、四時花鳥の環境や、その変化推移をさながらに抽象して観客の主観と共鳴させるなぞ、その変化応用は到底筆舌の及ぶ範囲でない。
 謡の節も同様である。
 たとえばシオリと云ってその人の最高潮の音調を使う一節がある。そのシオリの最高潮の一部は非音階音にまで跳ね上げる位高いのであるが、これは咏嘆、賞讃、喜怒哀楽はもとより、曲の気分の転換、結末のしめくくり、曲中の最高、最美、最大、最深等の表現に用いらるるのみならず、シカケ、ヒラキの型と同じく、曲中の山川草木等のあらゆる背景、もしくは対象等の存在をこの一節によって深刻に抽象して直接聴者に霊的の感銘をあたえる。その応用の広い事は到底擬音的な音楽なぞと比較し得るところでない。
 その他囃子の手の中でも只一回、指一本で、軽く鼓の表面に触れるだけで、宇宙間の森羅万象と喜怒哀楽、その他のあらゆる芸術表現の使命を達し得る。指一本の一接触で主観客観を超越した万象の感じを直感させ得るという、法螺話《ほらばなし》としか思えない素晴らしい実例なぞが、まだいくらでもあるが、ここには煩を避ける。ただ、そんな表現実例が、能楽の舞台面に於ける日常茶飯の出来事で、微塵の誇張も含んでいない……能を見慣れている人が、いつもながら三嘆するところである事を念のために書き添えておく。
 ところで……斯様に極めて簡単な定型によって、どうしてあのように色々な意味が表現出来るのであろう。または、あんな簡単、率直な定型が、どうしてあんなに色々に美しく感ぜられるのであろう……という事は、能楽愛好者の皆不思議がるところであると同時に、説明に苦しむところである。殊に能楽を、定型の伝統的な因襲とばかり考えている人々にとっては無理もない事である。
 しかしこれと反対に、能の進歩向上を認め、現在に於ても日々夜々に洗練されリファインされつつあるもの、という事を認め得る人々に対しては容易に説明され得ると思う。
 すなわち、あらゆる舞の手が、繰り返し繰り返し演ぜられて行くうちに、次第次第に洗練されて単純な緊張したものになって来る。対象物の形や動きを真似した客観的表現……自己の意志感情を表現した主観的なシグサ……又は自己の姿態美をあらわすだけの無意味な動作……そんな舞の手が、それぞれに、それぞれの目的に向って高潮し、洗練されて或る極点まで来ると、そのような意味を皆含んだ……そうしてそれ等の表現形式を超越した、或る一つの単なる定型に帰納されてしまう。たとえば「向うに木がある」「山がある」「月がある」なぞの指し示す型と、「これから私は……」「可哀相な私……」なぞと自分を指すシグサと、「ああ嬉しい」「この狂おしさ」なぞという意味で胸を押える型と……「俺は強いぞ」とか「サア来い」とかいう心で腕を張る型と……それ等の型のすべては前に述べたシカケ、ヒラキの型の一手によってあらわされ得ると同時に、それが最も緊張した、姿態美の精髄をあらわす舞台表現だという事が、洗練の結果わかって来る。同時に裡面から考えると、このシカケ、ヒラキが、そうした色々の表現を煎じ詰めた最高の表現という事が理解される事になるので、ここに「シカケ、開き」という定型が生れ出る事になる。
 ところで斯様にして「シカケ、ヒラキ」という定型が生れ出ると、その応用の範囲が又、頗《すこぶ》る広いことがわかる。
 たとえば「俺は鬼である」という心を表わすのに、昔は両手を額の上に持って来て恐ろしい顔をして見せたかも知れぬ。しかし、それは鬼の形を真似したに止まるもので、「俺は鬼だぞ」という充実した心持ちはあらわされ得ない。寧《むし》ろ、すこし前に進み出て右手を心持前にし、静かに退いて、もとの姿勢に復《かえ》る方が「自分は鬼」という心持の表現に合致している。事実、演者がその心持でシカケてヒラクと、観者は主観的に演者を鬼と感じて終《しま》うので扮装の有無には拘《かか》わらない。扮装していれば尚鬼である。これに反して仮令《たとい》、鬼の姿をしていても、その心なしにシカケ、ヒラキをやれば、観者はチットモそんな感じを受けない。「鬼の姿をした者が手足を動かしている」程度の感じしか受けないのは無論である。
 又は「あすこに山が見える」という場合に、向うを指して山の形を両手で描いて見せたのが昔の表現であったとする。今でも手踊りや何かの中にはこの程度の表現を見受けるが、しかし、それは単に山の形を真似ただけで何等の主観的表現を含まない。それよりも「ああ山が見える」という心で静かにシカケ、ヒラキの型を演じた方が充実した舞台印象を観客にあたえつつ、自己の表現慾を最高度に満たす事が出来る。平
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