の無意味な動作……そんな舞の手が、それぞれに、それぞれの目的に向って高潮し、洗練されて或る極点まで来ると、そのような意味を皆含んだ……そうしてそれ等の表現形式を超越した、或る一つの単なる定型に帰納されてしまう。たとえば「向うに木がある」「山がある」「月がある」なぞの指し示す型と、「これから私は……」「可哀相な私……」なぞと自分を指すシグサと、「ああ嬉しい」「この狂おしさ」なぞという意味で胸を押える型と……「俺は強いぞ」とか「サア来い」とかいう心で腕を張る型と……それ等の型のすべては前に述べたシカケ、ヒラキの型の一手によってあらわされ得ると同時に、それが最も緊張した、姿態美の精髄をあらわす舞台表現だという事が、洗練の結果わかって来る。同時に裡面から考えると、このシカケ、ヒラキが、そうした色々の表現を煎じ詰めた最高の表現という事が理解される事になるので、ここに「シカケ、開き」という定型が生れ出る事になる。
ところで斯様にして「シカケ、ヒラキ」という定型が生れ出ると、その応用の範囲が又、頗《すこぶ》る広いことがわかる。
たとえば「俺は鬼である」という心を表わすのに、昔は両手を額の上に持って来て恐ろしい顔をして見せたかも知れぬ。しかし、それは鬼の形を真似したに止まるもので、「俺は鬼だぞ」という充実した心持ちはあらわされ得ない。寧《むし》ろ、すこし前に進み出て右手を心持前にし、静かに退いて、もとの姿勢に復《かえ》る方が「自分は鬼」という心持の表現に合致している。事実、演者がその心持でシカケてヒラクと、観者は主観的に演者を鬼と感じて終《しま》うので扮装の有無には拘《かか》わらない。扮装していれば尚鬼である。これに反して仮令《たとい》、鬼の姿をしていても、その心なしにシカケ、ヒラキをやれば、観者はチットモそんな感じを受けない。「鬼の姿をした者が手足を動かしている」程度の感じしか受けないのは無論である。
又は「あすこに山が見える」という場合に、向うを指して山の形を両手で描いて見せたのが昔の表現であったとする。今でも手踊りや何かの中にはこの程度の表現を見受けるが、しかし、それは単に山の形を真似ただけで何等の主観的表現を含まない。それよりも「ああ山が見える」という心で静かにシカケ、ヒラキの型を演じた方が充実した舞台印象を観客にあたえつつ、自己の表現慾を最高度に満たす事が出来る。平
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