地を高めようと苦心し修養する。
 しかし古来の名人が、代を重ねて洗練して残した型は実に表現の極致、芸術的良心の精髄とも云うべきものである。これを理解するさえ容易でない。演出するのは尚更である。
 それを更にそれ以上に洗練して、新しい型を残すのは尋常人の出来る事でない。僅に極く小さい一部分を改めて終るのは上乗の部で、大抵は流儀の番人で終るのが多い。ウッカリすると古人の型の理解し得ぬものを残して死ぬ家元も珍らしくない。そうしてその何代目かの後の英才が、その書き残された不可解の型の説明を見て、膝を打って感嘆する……というような事が多いらしい。
 ところで、前に云った養子が幸いにして前代以上の芸を養い、第二代の家元を継ぐ事になると、層一層、自奮自励して流風を向上させ、倍一倍絶妙の境界に達する。そうすると彼は又、その境地に於て得た型を後世に残すべく然るべき器量の養子を求めるといった段取りになる。
 家元制度の性質と、能楽の向上発達の径路の大要は以上述べた通りである。

     能の定型

 以上述ぶるような家元制度に依って、擁護され、洗練されて来た能楽は、現在どの程度まで発達して来ているか。その舞、謡、囃子の三大要素はどんな風に組み合わせられているか。その部分的要素である舞の手の一つ、謡の一節、囃子の一手は、全局とどんな表現的因果関係を持っているか……なぞいう事は、容易に説明が出来ないと思う。又、出来たと思っても結局一人呑込みになる虞《おそれ》があると思う。
 それは何故か。
 能の舞の型、節《ふし》、文句等には無意味なものが多い。皮相を見ると「ただ昔からそう伝えられているものを、そうやっているばかりである」という式のものが大部分を占めているかの観がある。又、能楽関係者も一般にそんな風に考えて、唯|無暗《むやみ》に習った手法をその通りに固守して、それを教えて飯を喰うのを本分と心得ている向きが多いらしい。筆者がここに書くような事を考えるのは「芸術の邪道」と考えているらしいので、そんなところから見ると「能」は伝統的な因襲一点張りなもので、昔の舞踊の残骸という評が相当の勢力を持っているのも無理はない。
 笛は大部分定型的な呂律《りょりつ》を、定型的なタイムを踏んで繰り返すに過ぎぬ。大鼓も小鼓も、太鼓も四ツか三ツかの僅少な音の変化によって八、六、四、二の拍子を扱って行くに過ぎぬ。し
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