しているので、どうかしてこれを後世に伝えたいと思うが、これを理解するものが一人も無いとする。
 普通の芸術だと、こうした玄妙を後世に伝えるのは不可能である。殊に色にも音にも残らないものならば、結局一人一代限りとなるべき筈であるが、能楽に限ってはこれを後世に伝える事が必ずしも不可能でない。
 その方法が家元の養子制度である。
 能は前にも述べたように、代々の名人上手によって洗練に洗練を重ねられて来た型(舞、謡、囃子等の全部を含む)に自己を当てはめて、更にソレを洗練に洗練した型を残す……という方法で、代を重ねて向上して来たもので、能とは要するに、人間の表現慾の極致、芸術的良心の精髄を、色にも型にも残らぬ型というものによって伝えて行くものである。だから、その型を理解し得ないものは、その型は舞えない事になっており、その一節、その一クサリと全曲との関係を味い得ないものには、その曲は謡えず囃《はや》せない事になっている(最も厳正な意味から云って)。
 たとえば邯鄲《かんたん》という曲に於て、主演者の盧生という人物が、能を終って引っこみがけに、自分の持っていた団扇《うちわ》を、舞台に置き忘れたまま幕に入る型がある(通常は持って引っ込む)。これは昔或る名人が、本当に人生を達観した盧生の気持ちになっていたために、本当に置き忘れて引っ込んだので、今以て、いい型として残っているが、サテ誰もこの型を再びやる者が居ない。何となれば、忘れようとして忘れたのは本当に忘れたのではない。真実の型とは云えないから誰一人として演るものが居ない。或はこの型が残ったために、後世に於ても永久にこの型をやる者が無くなるかも知れぬ。
 能の型は、それ程に神聖なもので、その境地に本当に這入った者でなければ、その型の精神はわからない。その演者の個性がそこまで洗練され、その人間の芸術的良心が、そこまで高潮されなければ、絶対に体得出来ないのが能の型であるという事が断言出来る。この意味から、或る一流の家元となった名人は、色々な深刻な、高潮した型を残して、後世に伝えようとする。しかし生やさしい者には伝えられない。
 こうなると吾児《わがこ》の幸福なぞは問題でない。吾児以外の誰でもいい。若い、頭のある、見込みのある者を自身に教育して、その人間の「能」を自分の程度にまで向上させて、自分の型を理解させるよりほかに方法がなくなる。そ
前へ 次へ
全39ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング