変化して来た能楽に、又一転期を劃したもので、部分的にも全体的にも華麗円満な演出を理想としている。金春を下絵、金剛を荒彫りとすれば、観世は彫り上げて磨きをかけて角々を丸くしたようなもので、見方によっては金春の古雅を転化して円満味とし、金剛の尖鋭さを消化して華麗味としたものかとも考えられる。能楽愛好者の九十何パーセントがこの流儀に属しているのは無理もない。
 宝生流は観世流に次いで起ったものだそうである。その流風は観世の円満味を多角的に分解し、華麗味を直線的に引直して、威厳を増した……とでも形容しようか。その流儀の主張は謹厳剛直に在るらしく、殊にその謡方《うたいかた》にそうした特徴があらわれている。
 観世は円満華麗という能の肉付を尊重し、宝生は謹厳剛直という能の骨格を見せていると評しようか。観世の下手がイヤ味になり、宝生の下手が滑稽味に陥り易いのを見ても二流の主張の相違がわかる。いずれにしても二者共にその流風は完成されたものとなっていて、その主張が一般の能楽同好者によく理解される。現在ポピュラーな流儀としてこの二流が動かすべからざる根柢を張っているのは当然である。
 喜多流は最も新しく起ったものである。その主張は外面から見れば各流のいい処ばかり採ったもの……即ち各流の無駄な表現を除いて演出を単純化したもので、素直、玲朗をモットーとしている。内面的に云えば在来の能の表現を一層求心的にしたもので、喜多流の能が完成すれば最も単純な、最も透徹した仮面舞台表現が出現する訳である。
 尚この他に梅若派というのが最近に観世流から分派したが、一流と認めるか認めないかで紛議中と聞くからここには略する。唯、その一派の芸風は観世の円満華麗を一層あらわにキワドくしたようなものである事を云い添えるだけにしておく。
 以上の五流は、それぞれ家元制度によって分派され、守護され、洗練されて来たものであるが、その家元制度の内容はナカナカ複雑多様である。

     家元の組織と仕事

 家元の組織と仕事は、流儀によって異同があるが、ここではいい加減に取捨して話す。
 能楽の家元はそれぞれ自流所属の舞台、楽屋、住宅を持ち、自流の能の演出、発表に必要な舞い手、又は謡い手として必要な内弟子を養っている。理想を云えば、助演者や、囃方、狂言方までも自流専属のものを養って、自流の主張と調和させ、演出を徹底せしむべ
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