ってたかって珍重するのだろう……」
というような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。
更に今一歩進んで、
「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである。謡も、舞も、囃子《はやし》も、すべてが伝統的の型を大切に繰り返すだけで、進歩も発達もない空虚なものである。手早く云えば一種の骨董芸術で、現代人に呼びかけるところは一つもない。世紀から世紀へ流動転変して行く芸術の生命とは無論没交渉なものである」
なぞと云うのは、まだ多少お能の存在価値を認める人々の言葉である。
「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の謡の節《ふし》や、囃子の間拍子や、舞の表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧《むし》ろ亡国の前兆である」
と云うに到っては、正に致命的の酷評と云っていいであろう。
能 好 き
ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構《ところかま》わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。
今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。
しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても満足な返事の出来る人はあまりないようである。
「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞと色々な理屈がつけられている。
前へ
次へ
全39ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング