能ぎらい/能好き/能という名前
夢野久作

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《》:ルビ
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   能ぎらい

 日本には「能ぎらい」と称する人が多い。否。多い処の騒ぎでなく、現在日本の大衆の百人中九十九人までは「能ぎらい」もしくは能に対して理解をもたない人々であるらしい。
 ところがこの能ぎらいの人々について考えてみると能の性質がよくわかる。
 目下日本で流行している音曲とか舞楽というものは随分沢山ある。上は宮中の雅楽から下は俗謡に到るまで数十百種に上るであろう。
 ところでその中でも芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白いので、又、そんなものほど余計に大衆的のファンを持っているのは余儀ない次第である。つまりその中に「解り易い」とか「面白い」とか「うまい」とか「奇抜だ」とか「眼新しい」とか言う分子が余計に含まれているからで、演者や、観衆、もしくは聴衆が余り芸術的に高潮せずとも、ストーリーの興味や、リズムの甘さ、舞台面の迫真性、もしくは装飾美等に十分に酔って行く事が出来るからである。
 然るに能はなかなかそうは行かない。第一流の名人が演じても、容易に共鳴出来ないので、坐り直して、深呼吸をして、臍下丹田に力を籠めて正視しても何処がいいのかわからない場合が多い。
「世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだから、トテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手もないのに切り結んだり、何万人もいるべき舞台面にタッタ二、三人しかいなかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するの
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