その薬を、僕にも服《の》ましてくれないか……」
「……………」
彼女は、私がふり返った眼の前でサッと血の色を喪った。今にも失神しそうにゴックリと唾を飲み込んで、額からポタポタと生汗《なまあせ》を滴《た》らしながら大きく大きく眼を瞠《みは》った。その眼を覗き込んで私は思い切り冷やかな笑みを浮かめた。
「……驚くこたあないよ。僕も死にたいんだから……僕は、今まで叔父に忠告しなかった事を後悔しているんだ。あんたがそんな女だっていう事をね……だけど、どうせ忠告したって同じ事だと思ったから黙っていたんだ」
「……………」
「……ね……あんたは、まだ、そんな事をするくらいだから、生き甲斐のある人間に違いないだろう……しかし僕や叔父はもう人間の癈物だからね。この世に生きてたって仕様のない人間だからね……」
「……………」
「構わないから、その薬を頒《わ》けておくれよ……僕の財産の全部は内縁の妻伊奈子に譲る……っていう遺言書を書いといたら文句はないだろう……」
彼女はみるみる唇の色まで白くした。反対に私を睨んだ眼は、首を切られる鯛のように美しく充血した。今にも泣き出しそうにパチパチと瞬《まばたき》をして見せた。
「……アハハハハハハハハ……アッハッハッハッ……」
と私は不意打ちに笑い出した。彼女が眼まぐるしく瞬を続けるのを見返りながら、
「……アハアハアハアハ……嘘だよ……今のは……。アハハハハハ。まあ、お前さんの好きなようにするさ。おれは知らん顔をしといてやるから……」
彼女は湯冷めで真白になった全身を、ブルブルと慄《ふる》わせつつ、唇を血の出る程噛みしめた。……と思うとやがて、湯気に濡れた長い睫毛《まつげ》を、ソッと蛇紋石の床の上に落した。
私は、勢いよく大理石槽の湯の中へ飛び込んだ。ザブリザブリと身体を洗いつつ、坐ったまま彫像のように固くなっている彼女を眺めた。たまらない可笑《おか》しさを笑いつづけた。
「アハハハハハ。アハハハハハ。ここへお這入りよ。風邪を引くよ。……今のは嘘だったら、アハハハハハハハ」
それから三日目の寒い晩であったと思う。
温泉|行《ゆき》以来、音も沙汰もしなかった伊奈子が、何と思ったかお化粧も何もしない平生着《ふだんぎ》のまま、上等の葉巻きを一箱お土産に持って日暮れ方にヒョッコリと遣って来た。そうして近所のカフェーから、不味《まず》い紅茶だの菓子だのを取り寄せながら、私の枕元で夜遅くまで芝居や活動の話をしいしい、何の他愛もなくキャッキャと燥《はしゃ》いで帰って行ったので、私は妙に興奮してしまって夜明け近くまで睡れなかった。そうしてヤットの思いでウトウトしかけたと思う間もなく、長距離らしい烈しい電話のベルに呼び立てられたので、私は寝床に敷いていた毛布を俥屋《くるまや》のように身体に纏いながら、半分夢心地で階段を馳け降りると電話口に突立った。序《ついで》に寝ぼけ眼《まなこ》で店の柱時計をふり返って見たら午前七時十分前であった。
「……モシモシ……モシモシ……四千四百三番ですか……大阪から急報ですよ……お話下さい……」
「……オーッ。青木かア!……何だア!……今頃……」
「……アアモシモシ。君は児島君かね……」
「イイエ違います。児島愛太郎です……」
「……ヤ……御令息ですか。失礼いたしました。私は青木商店の主人で藤太《とうた》と申します。まだお眼にかかりませんが、何卒《どうぞ》よろしく……エエ……早速ですが、お父様のお宅にはまだ電話が御座いませんでしたね……ああ……さようで……では大至急お父様にお取次をお願いしたいのですが、実は大変にお気の毒な事が出来まして……」
「……ハア……どんな事でしょうか……」
「もうお聞きになったかも知れませんが、中ノ島の浜村銀行が今朝《けさ》、支払停止を貼り出しました……」
「ハア……そうですか」
「頭取の浜村君と、支配人の井田君は昨夜からその筋へ召喚されておりますので、預金者は皆途方に暮れているのです」
「ナルホド」
「あなたのお父様と同銀行とは、兼ねてから深い御関係になっておられる事を承っておりましたので、取りあえずお知らせ致しますが……実は折返して今一度、至急に御来阪願いまして、その事に就いて御相談致したいと存じますので」
「どうも有り難う御座います。すぐに取次ぎます」
「どうかお願い致します。そうして出発の御時間を、すぐにお知らせ願いたいのですが……甚《はなは》だ恐縮ですが……」
「かしこまりました。しかし叔父はまだ、昨夜まで自宅に帰っておりませんので……」
「ハハア。……ナルホド……それは困りましたな……エエトそれではどう致したら……」
「ハイ。けれども昨晩までには帰ると申しておったのですから、事によるともうじき店に来るかも知れません。そうしたら間違いなく……」
「……ハ……どうかお願い致します……では失礼を……」
青木氏の声は落ち付いてはいたが、その口調には明らかに狼狽した響きが含まれていた。ことに依ると青木氏も叔父と同様に浜村銀行に預金しているのかも知れない。面白いな……と私は微笑しつつ電話を切った。そうしてまだ睡い眼をコスリコスリ、今|一《ひと》寝入りすべく二階へ帰ろうとすると、暗い梯子段に足を踏みかけぬうちに、又電話口に呼び返された。
「オーイ。交換手……切ってくれエ。話は済んだんだア」
「モシモシ……あなたは愛太郎さん?」
「ナアンだ……伊奈子さんか……ちょうどよかった……今どこからかけているの……」
「公園の中の自動電話よ」
「フーン。何の用?……」
「……あのね……昨夜《ゆうべ》妾《わたし》が帰ったらね……叔父さんが帰っていたの……」
「フーン。それで……」
「……あのね……そうしたらね……今朝《けさ》から様子が変になったの」
「……どうして……」
「……あのね……妾……アノお薬を服《の》ませるのを四五日前から止していたの……大阪へも何も入れないカクテールを持たして上げたの……そうして昨夜も同じのを、あたためて上げたのよ」
「……フーン……だから温泉で僕に打ち明けたんだね」
「……エエ……まあそうよ……そうしたら昨夜、夜中から胸が苦しいと云い出してネ、今朝、お隣りの山際っていうお医者さんに診《み》せたら心臓の工合がわるいって云うの。そうして先刻《さっき》まで何本も注射をしたけどチットも利かないで、物も云わずに藻掻《もが》きはじめたの……何を云ってもわからないのよ……もう駄目なんですってさあ」
「ちょうどよかった」
「ええ……だからあなた早く来て頂戴な。そうして何とか芝居をして頂戴な……あたし何だか怖くなったから……」
「……バカ……何が怖い……そんな事は覚悟の前じゃないか……初めっから……」
「だって医者が見ている前で口と鼻からダラダラ出血し初めたんですもの……あのお薬は妾が聞いたのと何だか違っているようよ。……お医者が青くなって妾の顔を見ながら、これは何かの中毒だって云ったから、妾|身支度《みじたく》をして、うちにある現金と、銀行の通帳《かよいちょう》を持って、裏口からソッと脱け出してここへ来たの……あなたと一緒に預金を引き出して逃げようか、どうしようかと思って……」
「駄目だよ。浜村銀行は払やしないよ」
「……エッ……どうして?……」
「浜村銀行の頭取と支配人が昨夜大阪で拘引されたんだ。福岡の支店も支払停止にきまっている。叔父は破産しているんだよ。残っているのは待合の借りばかりだ」
「……………」
「みんなお前さんの自業自得さ。お気の毒様みたいなもんさ。……どこへでも行くがいい……」
「……ホント……」
「本当さ……今、大阪から電話が掛かって来たから知らせようと思ったところへ、お前さんが電話をかけたんだ。だから僕はすぐに電話口へ出たろう……ちょうどよかったんだ」
「……………」
「……ジャ左様《さよう》なら……御機嫌よう……」
「待って頂戴……」
「……何だ……」
「……チョッと待ってネ。後生だから……あたし……」
「どうしたんだい」
「……………」
彼女が受話機を箱の上に置く音がした。そのあとから自動車らしい警笛がホンノリと通過すると間もなく、彼女が咳払いする音が聞えて来た。
「……モシモシ……モシモシ……時間ですよ……」
「……つないで……ちょうだい」
お金を入れる音がコチーンとした。
「オイオイ……どうしたんだ?」
「……あたし……今ね……叔父さんに上げたお薬の残りをアブサントに溶《と》いといたのを……みんな飲んでしまったの」
「馬鹿……」
「……妾……今から帰って、お医者様にスッカリ白状するわ。みんな妾が一人でした事だって……ですから貴方《あなた》は……あなたは早く逃げて頂戴……同罪になるといけないから……店の金庫の合牒《あいちょう》はイナコよ……サヨウ……ナラ」
彼女が受話機を取り落す音がした。そのあとからゴトーンと人間の身体が倒おれるような音が響いた。
「……馬鹿め……勝手にしろ……」
と云い放って私は受話機をかけた。
「……チイ……芝居だ。畜生め……このまま俺が逃げ出したら、立派な犯人が出来上るって寸法だろう……ハハンだ……電話の神様を知らねえか……」
こう思いながら二階に上って、昨夜の吸いさしの葉巻に火を点《つ》けたまま、暖かい蒲団にもぐり込むと、エタイの知れない薄笑いが自然《おのず》と唇にニジミ出した。
ウッカリするとそのうちに叔父が店にやって来るかも知れないと思い思い、グッスリと睡ってしまった。
× × ×
警察でも検事局でも私は一切知らない知らないで頑張り通した。血を吐いた叔父と伊奈子の死骸を突きつけられた時も、彼女が叔父の妾《めかけ》であったという事以外に何一つ知らないと云い切った。そうして未決監で正月を済ますと間もなく証拠不充分で釈放された。その間の寒さは私の骨身にこたえ[#「こたえ」に傍点]た。
霜の真白な町伝いに取引所前の店に帰ってみると、表の扉《と》は南京錠をかけたままになっていた。私はとりあえず支那料理屋に電話をかけると、すぐに二階に上ってなつかしい葉巻の煙に酔いつつこの遺書《かきおき》を書き始めた。
しかし私は、三週間ばかり前から大評判になっている「檜《ひのき》御殿」の謎を解く目的でこの筆を執《と》ったのではない。同時に私が監房の中で自殺を決心したのは、一文無しになった自分の前途を悲観したからではない。
又は、
[#ここから1字下げ]
……叔父も伊奈子もシンカラの悪魔ではなかった。彼等を眩惑して悶死させながら、平気で冷笑していた私こそ……ホントウの……生れながらの悪魔であった……。
[#ここで字下げ終わり]
という事をシミジミ自覚したからでもない。
伊奈子の恐ろしい死に顔を見た瞬間に、彼女の真実を知ったからであった。
眼に見えぬ鉄鎚《かなづち》で心臓をタタキ潰されたからであった。
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社
1929(昭和4)年12月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:久保あきら
2000年6月17日公開
2006年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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