(大正十三年)の八月の初めの珍らしくドンヨリと曇った午後の事であった。店を仕舞《しま》ってから給仕に窓や扉《と》を明け放させたまま、電話の前の自分の机に倚《よ》りかかって、ずっと以前に読みさしたまま忘れていた翻訳物の探偵小説を読んでいると、肩の処で突然に電話のベルが鳴った。
 私は読みさしの小説の中の事件を頭の中で渦巻かせながら立ち上って、受話機を耳に当てると、今までに一度も聞いた事のない、水々しい魅力を持った若い女の声が響いて来たので、私は思わず、顔に蔽いかかった髪毛《かみのけ》を撫で上げた。本能的に全神経を耳に集中した。
「モシモシ……あなたは四千四百三番でいらっしゃいますか」
「そうです……あなたは……」
「……あの……児島はもう帰りましたでしょうか」
「……ハイ。主人は今しがた帰りました。失礼ですがあなたは……」
「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」
「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」
「……オホホホホホホホホ……」
 ……受話機のかかる音がした。
 私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っ
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