神[#「私という福の神」に傍点]に投げ与える極めて安価な足止め料に相違なかった。もっともそのおかげで、私は汚ない二階に寝ころんだまま、煙草と、弁当と、書物の三道楽に浮き身をやつし得るありがたい身分になったわけであるが、同時にその道楽の結果として、自分の頭と、胃袋と、肉体とが日に日に頽廃して行く有様《ありさま》を自分でジッと凝視《みつ》めていなければならなくなったのには少々悲観させられた。煙草はマドロスパイプを使う舶来の鑵入りでなければ吸えないようになった。弁当は香料の利《き》いた、脂《あぶら》濃い洋食か支那料理に限られて来た。小説もアクドイ翻訳ものか好色本のたぐいでなければ手にしなくなった。しまいにはそれさえも飽きて来て、神経の切れ端《はじ》を並べたような新体詩や、近代画ばかり買うようになった。それでも余った札束や銀貨の棒は、片っ端から押入れの隅にある本筥《ほんばこ》の抽出しに投げ込んだ。
 しかし遂にはそんな書物を買いに行く事すら面倒臭くなった。苦辛《にがから》い胃散の味を荒れた舌に沁み込ませながら、破れ畳の上に寝ころんで、そこいらの壁や襖の楽書きの文句や絵に含まれている異様に露骨な熱情や、拙劣な技巧によって痛切に表現されている心的の波動を、宇宙間無上の芸術ででもあるかのように飽かず飽かず眺めまわしつつ、あらん限りの空想や妄想を逞しくする時間が殖えて来た。私は自分の肉体と精神の弾力が、日に日にダラケて消え失せて行くのを感じた。しまいには壁の美人画の永久に若い、生き生きした微笑から、一種の圧迫を感ずるくらいにまで神経が弱って行った。……私は近いうちに死ぬかも知れない。病気にかかるか、それともキチガイになるか、自殺するかして……というような薄暗い予感に襲われ初めたのはこの頃からの事であった。叔父はこうして私を衰滅させるためにヤケに給料を殖やしているのではないか知らん。もしそうならば構う事はない。死にがけに叔父の頭を鉄鎚でなぐってお礼を云ってやろう……なぞと真面目に考えたりした。
 そのうちに叔父は満五十歳になった。私は二十歳になった。
 叔父が独身者である事を、私が初めて知ったのはこの頃の事であった。

 二十歳になるまで七八年間も一緒に居た叔父が、独身者かどうか気付かなかったといったら笑う人があるかも知れない。しかしこれは私の正真正銘のところであった。私はそれほど左様《さよう》に実世間とかけ離れた世界に生きている人間であった。私は私の神経が、実世間のいかなる問題に触れても、すぐに縮み込む程に鋭いものであることをよく知っていた。私は現実の世界に在る太陽や、草木や、土や風なぞいうものが、空想の世界にあらわれる太陽や草木風景なぞよりも遥かに単調子な、平凡な、荒々しいものであることを知り過ぎる位知っていた。同様に、金《かね》とか、女とかいうものも実際に手に取ってみると存外下らない、飽き飽きしたものである上に、そんなものに対する慾望を持続して行くためには実に馬鹿馬鹿しい、たまらないほど夥しい苦労を続けなければならぬであろうことを考えるだけでもウンザリした。私は現実の一切に諦らめをつけて、空想の世界に寝ころんでいるのが、私に一番似合い相当した生活であると信じていた。
 だから私はこの数年の間に、叔父の自宅らしい処から一遍も電話がかからないのを多少不思議に思いつつも、それについて探偵してみようなぞいう勇気を起した事はなかった。一方に月給を取る器械みたような店員たちも、この事に就《つ》いて私と雑談するような事は絶無であった。
 然るに…………
 忘れもしない去年(大正十三年)の八月の初めの珍らしくドンヨリと曇った午後の事であった。店を仕舞《しま》ってから給仕に窓や扉《と》を明け放させたまま、電話の前の自分の机に倚《よ》りかかって、ずっと以前に読みさしたまま忘れていた翻訳物の探偵小説を読んでいると、肩の処で突然に電話のベルが鳴った。
 私は読みさしの小説の中の事件を頭の中で渦巻かせながら立ち上って、受話機を耳に当てると、今までに一度も聞いた事のない、水々しい魅力を持った若い女の声が響いて来たので、私は思わず、顔に蔽いかかった髪毛《かみのけ》を撫で上げた。本能的に全神経を耳に集中した。
「モシモシ……あなたは四千四百三番でいらっしゃいますか」
「そうです……あなたは……」
「……あの……児島はもう帰りましたでしょうか」
「……ハイ。主人は今しがた帰りました。失礼ですがあなたは……」
「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」
「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」
「……オホホホホホホホホ……」
 ……受話機のかかる音がした。
 私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っ
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