は「悪」の字を取扱った小説や講談で、悪党とか、悪魔とか名付けられる人物や、そんな思想を取り入れた読みものは何故だかわからないまま奇妙に惹き付けられて読まされた。皮肉と冷笑とで、あらゆるものを堕落させて行くメフィストフェレスや、人間の尊とい血と涙を片っ端から溝泥《どぶどろ》の中に踏み込んで、見返りもせずに濶歩して行くドリアングレーなぞいう代表的な連中は、もう親友以上に心安くなって、スッカリ悪魔通になってしまったので、そんな連中に比べると、ケチな椋鳥《むくどり》を引っかけて身上《しんじょう》をハタカせるのを唯一の楽しみにしている叔父なぞは、オッチョコチョイの木《こ》っ葉《ぱ》悪魔ぐらいにしか見えなくなって来た。
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 ……この世には、もっとスバラシイ、偉大な悪魔が実在していないものか知らん……あの叔父のスベスベした脳天へ、鍛冶《かじ》屋の鉄鎚《ハンマー》を天降《あまくだ》らせるか何かしたら、私は差し詰め悪魔以上の人間になれる訳だけど、しかし、一方から見ると、それは立派な親孝行にもなるのだから何にもならない。……第一私にはそんな悪魔になり得るだけの力と度胸がないから駄目だ。……ああ悪魔になりたい。そうしたらドンナにか面白いだろうにナア……。
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 なぞと飛んでもない事を考えたりした。そうかと思うと、あの大東汽船の美人画のポスターを、自分でも知らない間《ま》に二階に持って来て暗い壁に貼り付けておいたものを、窓越しに向い合っているような気持ちで飽かず飽かず眺めたり、それを女主人公にして様々の甘ったるいローマンスを描いたり、又は、読んだ小説の中の可憐な少女に当てはめて、同情したりして楽しんだ。
 時たま活動を見に行く事もあったが、その時は、隣家《となり》の店に居る泊り込みの小使い爺さんに留守を頼んで、表から南京錠をかけて行った。
 叔父は着物と弁当以外に、毎月十円|宛《ずつ》くれた。

 私の得意は簿記よりも電話であった。
 叔父に電話をかけて来るお客の声を、モシモシのモの字一字で聞き分けたり、受話機の外し工合で男か女かを察したり、両方から一時に混線して来た用向きを別々に聞き分けて飲み込んだりする位の事はお茶の子サイサイであった。世間の人間はみんな嘘を吐《つ》く中《うち》に、電話だけは決して嘘を伝えない。自分の持っている電気の作用をどこまでも、正直に霊妙にあらわして行くもの……というような、一種の生意気な哲学めいた懐かしみさえおぼえた。殊に電話は、あらゆる明敏な感覚を持つ名探偵のように、時々思いもかけぬ報道をしてくれるので面白くてしようがなかった。それは誰に話しても本当にしてくれまいと思われる電話の魔力であった。
 受話機を耳に当てる瞬間に私の聴覚は、何里、もしくは何百里の針金を伝って、直接に先方の電話機の在る処まで延びて行くのであった。その途中からいろんな雑音が這入って来ると、このジイジイという音はこちらのF交換局の市外線の故障だ……あのガーガーという響きは大阪の共電式の電話機と、中継台との間に起っているのだ……というようなことが、経験を積むにつれて、手に取るように解って来た。その都度にそこの交換局の監督や、主事を呼び出して注意をしたり、手厳しく遣っ付けたりするのが愉快で愉快でたまらなかった。又それにつれて、各地の交換手の癖や訛《なまり》なぞは勿論、その局の交換手に対する訓練方針の欠点まで呑み込むと同時に、電線に感ずる各地の天候、アースの出工合、空中電気の有無まで通話の最中に感じられるようになった。電話口に向った時の頬や、唇や、鼻の頭、睫《まつげ》なぞの、電流に対する微妙な感じによって、雨や風を半日ぐらい前に予知する事も珍らしくなかった。
 その中《うち》でも面白かったのは相場の上り下りの予感が電話で来る事であった。
 大阪の株式や米の相場なぞは、毎日青木という店から予約電話を通じて、前後数回に分けて知らせて来るので、その時分にそんな贅沢な真似をしているのは一軒隣りの「山長《やまちょう》」という大商店と叔父の処だけであった。叔父はそれが又、大得意で、来るお客|毎《ごと》に吹聴しては店の信用を裏書きする材料にしていたが、何しろ距離が遠いのと雑音が烈しいのとで、並大抵の耳では相手の読む数字が聴き取れないのを、私の鼓膜は雑作《ぞうさ》なしにハッキリと受け入れた。のみならず私の聴神経はもっと遠い処から来るほかの音響までも、同時に聴こうとしているのであった。
 大阪の青木という店は取引所のすぐ近くにあるらしく、表の窓や扉《と》が密閉されていない限り、店の中の物音と往来の噪音とが、相場の読み声と一緒に送話機から這入って来た。各地の天候が好晴で、電話線がスッキリとした日には、立ち合いの物音や呼び声らしいドヨメ
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