る時に又コンナ事を云われたのです……クレハの奴、飛んでもない人間と結婚しようと思っている。あんな奴と結婚したら、クレハ自身ばかりじゃない俺までも破滅しなくちゃならん。俺とクレハの一生涯の恥を晒《さら》すことになるんだ。今夜こそ彼女《あいつ》の希望をドン底までタタキ潰してくれる。たとい打殺《うちころ》しても二度とアンナ希望を持たせないようにするつもりだ……と非常に昂奮していられましたがね」
 呉羽は笠支配人の話の中《うち》に、それこそホントウにタタキ附けられたように椅子の中へ埋もれ込んだ。肩を窄《すぼ》めて眼を伏せたまま深い深いふるえたタメ息をした。
「一体あなたがその結婚したいと仰言る相手は誰なのですか。私は直接に貴女《あなた》のお口から聞きたいのですが、ドナタなのですか一体……面白い相手ならば私も一口、御相談相手になって上げたい考えですがね」
「……………」
 相手が参っている姿をマトモに見た笠支配人は、思わずニンガリと笑った。頬杖を突いて身を乗出したいところであったろうが、卓子《テーブル》が無いので仕方なしに腕を組んでグッと反身《そりみ》になった。なおなお呉羽を脅やかして、勝利の快感に酔いたい恰好であった。
「……仰言れないでしょうね。こればかりは……ヘヘヘ。しかしコチラにはちゃんとわかっておりますよ。ヘヘヘ。お隠しになっても駄目ですよ……あなたのお父さん……だか、赤の他人だか知りませんが轟九蔵さんはその時に、こんなような謎を云い残しておられるのです。そのクレハの結婚の相手というのがアンマリ意外なので俺は全くタタキ付けられてしまったんだ。ほかでもないあの脚本書きの江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策の妹のミドリなんだ。つまり同性愛という奴で、あの女に対してクレハの奴がとても深刻な愛を感じているんだね。俺はこの頃、毎晩仕事に疲れて、アタマがジイインとなって、何もかも考えられなくなっているところへ、クレハの奴が又こんなような飛んでもない変テコな問題を持込んで来やがるもんだから、いよいよ考え切れなくなって君に……つまり私にですね……相談をかけてみるんだが、一体、俺はドウしたらいいんだろう……クレハの奴は幼少《ちいさ》い時から無残絵描きの父親の遺伝を受けていると見えてトテモ片意地な、風変りな性格の奴であったが、その上にこの頃、あんな芝居ばかりさせられて来たもんだから根性がイヨイヨドン底まで変態になってしまっているらしいのだ。あのミドリさんと同棲して、お姉さんお姉さんと呼ばれて暮すことが出来さえすれば妾はモウ死んでも構わない。これを許して下されば妾は新しい生命に蘇って、モットモットすごい芝居を、モットモット一生懸命で演出して、今の呉服橋劇場の収入を三倍にも五倍にもしてみせる。そうしてミドリさん兄妹《きょうだい》を洋行させて頂けるようにする……今みたいな人間離れのしたモノスゴイ芝居ばかりさせられながら、何の楽しみも与えられない月日を送っていると妾はキット今にキチガイになります。今でも芝居の途中で、そこいらに居る役者たちの咽喉《のど》笛に、黙って啖付《くいつ》いてみたくなる事がある位ですが、ホントウに啖付《くいつ》いてもよござんすか……ってスゴイ顔をして轟さんにお迫りになったそうですね」
「……………」
「私はまだまだ色々な事を知っているのですよ。轟さんはズット前からよく云っておられました。あのミドリ兄妹は放浪者だったのを轟さんが旅行中に拾って来られたもので、兄に美術学校の洋画部を、妹に音楽学校の声楽部を卒業おさせになったものですが、兄の方の絵はボンクラで物にならず、とうとうヘボ脚本屋に転向してしまったのですが、これに反して妹の美鳥《ミドリ》の方はチョット淋しい顔で、ソバカスがあったりして割に人眼に立たない方だけれども、よく見るとラテン型の本格的な美人で、しかも声が理想的なソプラノだ。もっともあのソプラノを一パイに張切ると持って生れた放浪的な哀調がニジミ出る。涯しもない春の野原みたような、何ともいえない遠い遠い悲しさが一パイに浮き上るのが傷といえば傷だ。日本では現在、あんなようなクラシカルな声が流行《はやら》ないが、西洋に行ったら大受けだろう。俺はあの娘を洋行さしてやるのを楽しみに、ああやって家《うち》の庭の片隅に住まわせて、呉羽とも親しくさせているのだが、兄も妹も寸分違わない眼鼻を持っていながらに、どうしてあんなに甚しい美醜の差が出来るのか、見れば見る程、不思議で仕様がない。もちろん兄貴の方がアンナに醜い男だから大丈夫と思って油断していたら、思いもかけぬ妹の方へクレハの奴が同性愛を注ぎ初めたりしやがったので俺は全く面喰らっている……と仰言ったのですが、これはミンナ事実なのでしょうね。ヘヘヘ」
「……………」
 呉羽は辛うじて首肯《うなず》いた。笠支配人も一つゴックリとうなずいて膝を進めた。
「一体|貴女《あなた》が結婚したいと仰言るのは誰ですか。ハッキリ仰言って頂けませんか。この際……」
「……………」
「アノ……アノ……創作家の江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策じゃないのですか」
「……………」
「どうも貴女《あなた》はあの男と心安くなさり過ぎると思っておりましたが……」
 笠支配人の態度と口調が、だんだん積極的になって来るに連れて、呉羽はイヨイヨ長椅子の中へ頽折《くずお》れ込んで行った。白手柄《しろてがら》の大きな丸髷《まるまげ》と、長い髱《たぼ》と、雪のように青白い襟筋をガックリとうなだれて、見るも哀れな位|萎《しお》れ込んでいるのを見下した支配人はイヨイヨ勢付いて、ここまでノシかかるように云って来ると、又もや呉羽は突然に真白い顔を上げた。眉をキリキリと釣上げてハネ返すように云った。
「ケ……穢《けが》らわしいわよッ……ア……アンナ奴……」
「……でも……でも……」
 笠支配人は度を失った。憤激《いかり》の余り肩で呼吸をしている呉羽の見幕に辛うじて対抗しながら、真似をするように息を切らした。
「でも……でも……貴女《あなた》は……いつも御主人の眼を忍んで……あの劇作家《せんせい》と……」
「そ……それはあの凡クラの劇作家《せんせい》に、次の芝居の筋書を教えるためなのよ。次の芝居の筋書の秘密がドンナに大切なものか……ぐらいの事は、貴方だって御存じの筈じゃありませんか。……ダ……誰があんなニキビ野郎と……」
 そう云ううちに呉羽は見る見る昂奮が消え沈まったらしく、以前の通り長椅子に両脚を投出した。今度は何やら考え込んだ、一種のステバチみたような態度に変ってしまった。そうした態度の変化には何となく不自然な、わざとらしいものがあったが、しかし笠支配人は満足したらしかった。モトの通りに落付いた緊張した態度で、ジッと呉羽の横顔を凝視《みつ》めた。
「それじゃ何ですね。貴女《あなた》は、轟さんに結婚の希望を拒絶されて、立腹の余りに轟さんを殺されたんじゃないんですね」
 呉羽はサモサモ不愉快そうに肩をユスリ上げて溜息をした。
「失礼しちゃうわねホントニ。いつまで云っても、同じ事ばっかり……執拗《しつこ》いたらありゃしない。ツイ今|先刻《さっき》貴方と二人で大森署へ行って、犯人に会って来た計《ばか》りじゃないの」
「ええ。ですから云うのです。犯人が貴女《あなた》を見上げた眼が尋常じゃなかったように思うのです。双方から知らん知らんと云いながら、犯人が涙をポロポロ流して、済みません済みませんと頭を下げているのを見た貴女《あなた》が、自動車に乗ってからソッと涙を拭いていたじゃないですか」
「ホホ。あれはツイ同情しちゃったのよ。犯人はどこかで妾に惚れていたかも知れないわ。コンナ女優業《しょうばい》ですからね、ホホ。……そういえば貴方を犯人が見上げた眼付の恨めしそうで凄かったこと。何かしら深い怨みがありそうだったわよ。知らん知らんとお互いに云いながら……」
「……そんな事はない……」
「だから妾もソンナ事はない」
「そ……それじゃ話にならん……」
「ならないわ。最初から……貴方の仰言る事は最初から云いがかりバッカリよ」
「云いがかりじゃありません。つまり貴女《あなた》が結婚したいなんて仰言ったのは、轟さんに対する何かの脅迫手段で、貴女の本心じゃなかったのですね」
「貴方はそう考えていらっしゃるの」
 そう云った呉羽の態度にはどこやら真剣なところがあった。笠支配人は太い溜息をした。
「ええ……そう考えたいのです。そう考えなければタマラないのです」
「ホホホ。面白い方ね貴方は……そんな事が、どうしてこの劇場の運命と関係があるんですの」
「大いにあるんです」
 笠支配人は急に勢付いたように坐り直した。颯爽たる態度で半身を乗出して、しなやかな呉羽の全身を見まわした。
「貴女も、もう相当に苦労しておられるんですからね」
「……さあ……どうですか……」
「呉羽さん……率直に云いましょうね」
「ええ。どうぞ……」
「僕と結婚してくれませんか」
 呉羽は予期していたかのように、横を向いたまま、唇の隅で小さく冷笑した。その凄艶とも何とも譬《たと》えようのないヒッソリした冷笑が、呉羽の全身に水の流れるような美くしさを冴え返らせて行くのを見ると笠支配人は、思わずワナナキ出す唇を一生懸命で噛みしめた。ここが一生の運命の岐《わか》れ目と思い込んでいるらしい真剣味をもって、今一層グッと身を乗出しながら、男盛りの脂切《あぶらぎ》った顔を光らした。
「ね。おわかりでしょう。僕の気持は……今、貴方から拒絶されると、僕はモウこの劇場に居る気がしなくなるのです。もうもうコンナ劇場関係《こやもの》生活だの、探偵劇だのには飽き飽きしているのですからね。天命を知ったとでも云うのでしょうか。モット落付いた、人間らしいシンミリとした生活がしてみたくてたまらなくなっているのですからね」
「……………」
「但し……貴女が僕に新しい生命を与えて下さるとなれば問題は別ですがね」
 呉羽は微《かす》かにうなずいた。ヒッソリと眼を閉じたまま……。
「……ね。おわかりでしょう。そうした僕の心持は……」
 呉羽は一層ハッキリとうなずいた。
「ええ。わかり過ぎますわ」
「ね。ですから……ですから……僕と……」
 笠支配人は青くなったり赤くなったりした。こうした場面によく現われる中年男の醜態[#底本では「醜体」と誤記]を見せまいとしてハラハラと手を揉んだり解いたりした。
「ええ。それは考えてみますわ。女優なんてものはタヨリない儚《はかな》い商売ですからね」
「エッ。それじゃ……承知して……下さる……」
「まッ……待って頂戴よ……そ……それには条件があるのです。妾も……ネンネエじゃありませんからね」
 呉羽は今にも自分に飛びかかりそうな笠支配人を、片手を挙げて遮り止めた。笠支配人は誰も居ない部屋の中を見まわしながら不承不承に腰を落付けた。
「そ……その条件と仰言るのは……」
「こうよ。よく聞いて下さいね。いいこと……」
「ハイ。どんな難かしい条件でも……」
「そんなに難かしい条件じゃないのよ。ね。いいこと……たとい貴方《あなた》と妾《わたし》とが一所になったとしても、この劇場の人気が今までの通りじゃ仕様がないでしょ。ね。正直のところそうでしょ。轟家《うち》の財産だって、もうイクラも残ってやしないし……貴方も相当に貯め込んでいらっしゃるにしても遊びが烈しいからタカが知れてるわ」
 笠支配人は忽ち真赤になった。モウモウと湯気を吹きそうな顔を平手でクルクルと撫で廻した。
「ヤッ。これあ……どうも……そこまで睨まれてちゃ……」
「ですからさあ……妾だって全くの世間知らずじゃないんですから、好き好んで泥濘《ぬかるみ》を撰《よ》って寝ころびたくはないでしょ。ね。ですから云うのよ。モウ少し待って頂戴って……」
「もう少し待ってどうなるのです」
「あのね。妾もね……この劇場《こや》にも、探偵劇《しばい》にも毛頭、未練なんかないんですけどね。折角、轟さんと一所に永年こうやって闘って来たんですから、せめての思い出に最後の一旗
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