様子を聞いて、もしやと思って駈付けてみると、そいつが有名な生蕃《せいばん》小僧という奴で、堀端《ほりばた》銀行の二千円をソックリそのまま持っていた。小切手と鑑識課の指紋がバタバタと調べ上げられる。電光石火眼にも止まらぬ大捕物だったね。満都の新聞をデングリ返すに足るよ。何でも十年ばかり前に静岡から信越地方を荒しまわった有名な殺人強盗だったそうだ」
「……殺人強盗……」
「そうだ。そいつが負傷したまま大森署へ引っぱって来られるとスラスラと泥を吐いたもんだ。如何にも私は轟九蔵を殺しました。私はあの女優の天川呉羽の一身上に関する彼奴《きゃつ》の旧悪を知っておりましたので、昨夜の一時半頃、あそこで面会しまして、二千円の小切手を書かせて立去りましたが、アンマリ呉《く》れっぷりがいいので、万一|密告《さし》あしめえかと思うと、心配になって来ましたから、今度は自動電話をかけて待っているように命じて引返し、十分に様子を探ってから堂々と玄関の締りを外させ、スリッパを揃えさせて上り込み、九蔵と差向いになって色々と下らない事を話合っているうちに、どうも彼奴《きゃつ》の眼色《めいろ》が物騒だと思いましたから、私一流の早業で不意打にやっつけました。それがちょうど三時半頃だったと思います。そのまま窓から飛出してしまいましたが……恐れ入りました……」
「……ナアアンダイ……」
「アハハハ。恐れ入ったかい。ハハハ。モウ文句は申しません。潔く年貢を納めますと云ったきり口を噤《つぐ》んでしまったのには少々困ったね。その轟九蔵との古い関係についても固くなって首を振るばかり……しかし現場《げんじょう》の説明から、殺す挙動《しぐさ》まで遣って見せたが、一分一厘違わなかったね。野郎、商売道具の足首を遣《や》られたんでスッカリ観念したらしいんだね」
「それにしても恐ろしくアッサリした奴ですね。首が飛ぶかも知れないのに……」
「殺人強盗の中にはアンナ性格の奴が時々居るもんだよ。ちょうど来合せた呉羽嬢と笠支配人にも突合わせてみたが、どちらも初めてと見えて何の感じも受けないらしい。ただ犯人が呉羽嬢に対して、すみませんすみませんと頭を二度ばかり下げただけで調べる側としては何の得るところもなかった」
「それからドウしたんです」
「どうもしないさ。推定犯人が捕まって自白した以上、警察側ではモウする事がないんだからね。君等と同じに非常召集をした連中がポツポツ来るのを追返してしまった。笠支配人と呉羽嬢も司法主任からの説明を聞いて大喜びで劇場に行ってしまった。それでおしまいさ。アハハハハ……」
「なあアんだい……」
 猪村巡査は高笑いしいしい立上った。文月巡査の背後にまわってダブダブの制服の背中を一つドシンとどやし付けた。
「ハハハ。馬鹿だな君は……そんなに探偵小説にカブレちゃイカンよ」
 文月巡査は首筋まで真赤になってしまった。眼を潤ませながら真剣になって弁明した。
「……コ……これは僕の趣味なんです。ボ……僕の巡査志願の第一原因は、やっぱりメチャクチャに探偵小説を読んだからなんです」
「馬鹿な。探偵小説なんちういうものは何の役にも立つもんじゃない。その証拠に探偵作家は実地にかけると一つも役に立たん。自分の作り出した犯人でなければ絶対にヨオ捕まえんというじゃないか……」
 文月巡査は残念そうに深いタメ息をした。瞑想的な、幾分気取った恰好でMCCの煙を吐いた。
「ああ……タタキ附《つけ》られちゃった」
「アハ……御苦労さんだ。トウトウ犯人を取逃しちゃったね。フフフ……」
「どうも貴方《あなた》は意地が悪いんですなあ。早くそう云って下されあコンナに頭を使うんじゃなかったのに……」
「そんなに頭を使ったかね」
「……どうも変だと思いましたよ。笠支配人と呉羽嬢に対する嫌疑がチットモ掛らないまま芝居へ行っちゃったんですからね」
「当り前だあ。その時にはモウ犯人の爪印《つめいん》が済んでいたかも知れん」
「ヘエ。それじゃあ……」
 と文月巡査が妙な顔になってキョロキョロした。
「ここが捜索本部と仰言ったのは……」
「ナアニ。あれあ嘘だよ。君が探偵小説キチガイで、まだ一度も実地にブツカッタ事がないって云ってたから、ちょっとテストをやってみた迄よ。ちょうど今日は僕も非番だったから笠支配人に頼まれて、ここで[#底本では「ここへ」と誤記]留守番をしてやる約束をしたもんだからね。キット退屈するに違いないと思って君をペテンにかけて引っぱって来たわけさ。どうだい面白かったかい」
「ああ。つまんない……」
「アハハ。そう憤《おこ》るなよ。モウ暫くしたら夕食が出るだろう。その中に呉羽嬢が帰って来たら一度見とくもんだよ。奥さんにいいお土産だ」
「……相すみません……僕はまだ未婚です」
「おほほう。そうかい。そいつは失敬した。そんなら丁度いい。夕飯を喰ってから一つステキな美人を見せてやろう」
「ヘエ。まだ美人が居るんですか。この家に……」
「いや。この家じゃないがね。ツイこの裏庭の向う側なんだ。呉服橋劇場の脚本書きでね。江馬《えま》[#底本では「司馬《しま》」と誤記]何とかいう人相の悪い男が、妹と二人で住んでいるんだ」
「アッ。江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策が居るんですか。コンナ処に……」
「何だ。君は知っとるのかいあの男を……」
「探偵小説を読む奴でアイツを知らない者は居ないでしょう。相当のインテリと見えますが、非常な醜男《ぶおとこ》のオッチョコチョイ、一流の激情家の腕力自慢というところから、よくゴシップに出て来ます。芝居に関係している事は初耳ですが、田舎ダネの下らない探偵小説を何とかかんとかといってアトカラアトカラ本屋へ持込むので有名ですよ。彼奴《あいつ》の小説を読むよりも、写真に出ている彼奴《あいつ》の顔を見ている方が、よっぽどグロテスクで面白い……」
「その妹の事は知らないかい」
「妹が居る事も知りません」
「その妹というのが、真実の兄妹[#底本では「兄弟」と誤記]《きょうだい》には相違ないんだが、音楽学校出身の才媛で、兄貴とはウラハラの非常に品のいい美人なんだ。何でも、死んだ轟氏がパトロンで兄妹の学費を出してやったという話だが、その妹と轟氏との関係の方がダイブ怪しいらしい」
「ああ。もうソンナ怪しい話はやめて下さい。ウンザリしちゃった」
「イヤ。今度の事件とは関係のない、全然別の話なんだ。何でもその歌姫《ソプラノ》を轟氏が可愛がっているお蔭で、兄貴までもが御厄介になっているらしいという、松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]の話だがね」
「ウルサイ奴ですね。アノ飯焚女《めしたきおんな》は……」
「おお。女中といやあ今の小間使の市田イチ子もチョットういういしい、踏める顔だよ。紹介してやろうか。今に茶を持って来るから……」
「イヤ。モウ結構です。僕は帰ります」
「まあいいじゃないか。ユックリし給え。君は女が嫌いかい」
「探偵小説があれば女は要りません」
「そんな事を云うもんじゃないよ。まあ見て行けよ。別嬪《べっぴん》の顔を……」
「イヤ。帰ります。お邪魔をするといけませんから……」
「アハハハハ。コイツはまいった……」

 ちょうどその時分であった。呉服橋劇場五階に在る呉羽嬢の秘密休憩室で、呉羽嬢自身と、笠支配人とが向い合って腰をかけていた。
 その秘密休憩室というのは、平生劇場用の小道具等を蔵《しま》っておく五階屋根裏の大きな倉庫の片隅を、ボロボロになった金屏風や、川岸の書割なぞで二間四方ばかりに仕切って、これも小道具の塵埃塗《ほこりまみ》れの長椅子と、歪《いびつ》になった籐椅子《とういす》を並べて、楽屋用の新しい座布団を敷いただけのもので、リノリウムの床とスレスレの半円窓の近くにカラカラに乾いた枯水仙の鉢が置いてあるのが、薄暗い裸電球の下で、そうした書割や金屏風と向い合って、奇妙に物凄い、荒れ果てた気分を描きあらわしていて、今にも巨大な一つ目小僧の首か何かが……ウワア……とそこいらから転がり出しそうな感じがする。
 しかし、それでも女優の呉羽にとっては、華々しい楽屋よりもこの部屋の方がズッと落付いて、気分が休まるらしかった。劇場そのものの人気はあまり立たなかったが、それでも彼女個人としての人気は、全国の女優群を断然抜いていて、三階の彼女の楽屋では訪問客を凌ぎ切れないために、彼女はよくこの物置の片隅の秘密室へ休憩に来るのであった。
 フロックコートの笠支配人はかなりの緊張した態度でイビツになった籐椅子の上にかしこまっている。これに対した彼女は派手な舞台用の浴衣《ゆかた》一枚に赤い細帯一つのシドケない恰好で、肉色の着込みを襟元から露わしたまま傍《かたわら》の長椅子に両足を投出しているが、モウ話に飽きたという恰好で、大きな古渡《こわたり》珊瑚《さんご》の簪《かんざし》を抜いて、大丸髷の白い手柄の下を掻いていた。
「それじゃクレハさん。貴女《あなた》と轟さんの間には何も関係はないんですね。普通の関係以外には……」
 呉羽は見向きもしなかった。
「何とでも考えたらいいじゃないの……イクラ云ったってわからない。どうしてソンナに執拗《しつこ》くお聞きになるの。下らない事を……」
「下らない事じゃないんです。これには深い理由があるのです……その……その……」
「アッサリ仰言いよ。モウ直《じき》、次の幕が開《あ》くんですよ」
「この次の幕は……ですね。貴女は、そのまんまの姿で出て、亭主役の寺本蝶二君に槍で突かれるだけの幕じゃないですか。まだ二十四五分時間があります」
「ええ。でもそれあ妾の時間よ。貴方のために取ってある時間じゃないわよ」
「恐ろしく手酷しいですな今夜は……下へ行くと新聞記者がワンサと[#底本では「と」が脱落]待ちうけているんですよ。犯人の逮捕を警察で発表したらしいんですからね。どうしても僕じゃ承知しないんです。貴女《あなた》でなくちゃ……」
「新聞記者の方が五月蠅《うるさ》くないわ。貴方の質問よりも……」
「そう邪慳に云うものじゃありません。だからよく打合わせとかなくちゃ……その……これはこの劇場の運命と重大な関係のある話なんですよ。この劇場の運命は貴女《あなた》の御返事一つにかかっていると云ってもいいんです」
「勿体振る人あたし嫌い……」
「いいですか……ビックリしちゃ不可《いけ》ませんよ」
「余計なお世話じゃないの……ビックリしようとしまいと……早く仰言いよ」
「それじゃ云いますがね……貴女《あなた》はね……」
「あたしがね……」
「この頃毎晩女中が寝静まってしまってから……轟さんの処へ押かけて行って、結婚したい結婚したいって仰言るそうじゃないですか……ハハハ……どうです……吃驚《びっくり》したでしょう……」
 呉羽は見る見る中《うち》に硝子《ガラス》瓶のように血の気を喪った。屹《き》っと身を起して笠支配人の真正面に正座して、唇をキリキリと噛んだまま睨み付けた。心持ち青味を利かした次の幕のメーキャップが一層物凄く冴え返った。カスレた声が切れ切れに云った。
「……それを……どうして……知ってらっしゃる」
 笠支配人は鬼気を含んだ相手の美くしさに打たれたらしかった。テラテラした脂顔《あぶらがお》の光りを急に失くして、両手をわなわなと握合わせながら腰を浮かした。
「……そ……それは……ソノ……轟さんから聞きました。四五日……前の事です。轟さんは、思案に余って御座ったらしく、私に二度ばかりコンナ話をされたのです。劇場《ここ》の地下食堂で轟さんと二人切りになった時です」
 呉羽が深くうなずいた。すこし張合が抜けたらしかった。
「あなたが探り出した訳じゃないんですね」
「そうです。轟さんから直接に聞いたのです。クレハは俺を見棄てて結婚しようと思っている。しかし俺はあのクレハを度外視《ぬきに》してこの劇場をやって行く気は絶対にない。クレハの結婚は俺にとって致命傷だ。俺はドンナ事があってもクレハの結婚を許す気にならん……とこう云われたのです」
「……………」
「そうして昨日《きのう》、二人で自動車で出かけ
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