五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。
 それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後《のち》、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中《うち》から選出《よりだ》した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動《しょうどう》した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。
 とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸《ドイツ》の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中《うち》には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「
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