……では皆様……さようなら……御機嫌よう御過し下さいませ」
 低く低く頭を下げた天川呉羽の、大きな水々しい前髪の蔭から玉のような涙がハラハラと滴り落ちるのが、フットライトに閃めいて見えた。
「シバイダ……シバイダ……」
「……バ馬鹿ッ……芝居じゃないゾッ……芝居じゃないんだぞッ……ト止めろッ……」
 突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻《もが》き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐《うちふところ》に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中《うち》に、
 ……轟然一発……。
 美しい半面をサット真紅に染めた呉羽は、ニッコリと笑って両手を合わせた。背後の白幕に虹のような血飛沫《ちしぶき》を残しながら、フットライトの前にヒレ伏した。
 トタンにヤット見物席から匍い上った浴衣がけの男が、飛び上るように呉羽の身体《からだ》に取付いた。綺麗に分けた髪を振乱したまま正面に向って悲壮な声で叫んだ。

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