た》の事だったそうです。ところで生憎《あいにく》か仕合わせかわかりませんが、その時に柳仙の手許に在ったお金はお小遣の余りの極く少しで、銀行の通帳や貴重品なんかは見付の町に在った心安い貯蓄銀行の金庫に預けてありましたので、お金以外の品物を決して盗らない事にしている生蕃小僧にとってはトテも損な稼ぎだったのでしょう。ところが、それとはウラハラに久蔵若親分はステキに、うまい事をしてしまいました。多分柳仙の家《うち》に残っていた印形《いんぎょう》を利用するか何かしたのでしょう。それにしてもドンな風に胡麻化《ごまか》したものか知りませんが、当然、その娘のものになる筈の何万かの財産と、かなり大きな生命保険を受取ると、そのまま行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまったものだそうです。
……ね……もうおわかりになったでしょう。柳仙夫婦がこの世に残したものの中でも一番大きい、美味《おい》しいことは、みんな久蔵若親分のものになってしまったのですからね……あとからこの事を知った生蕃小僧が、それこそ地団太を踏んで今の轟九蔵を怨んだのは無理もありませんわね。ですから轟がドンナに巧妙に姿を晦《くら》ましても生蕃小僧はキット発見《みつけ》出して脅迫して来るのでした。俺が捕まったらキット貴様も抱込んで見せるとか、当り前の復讐では承知しないぞ……とか何とか云っていたそうですが、しかし轟はセセラ笑っておりました。彼奴《きゃつ》の怨みは藪睨みの怨みだ。俺は別に生蕃小僧をペテンにかけるつもりじゃなかったんだ。ただお前が可愛くてたまらなかったばかりに、万一の事が気にかかってアンナ事をしただけの話なんだ。もちろん生蕃小僧がアンナに早く仕事にかかろうとは思わなかったし、奥さんの事を片付けてサッパリしてから柳仙に注意もしようし、手配もするつもりでいたんだから、柳仙夫婦が、あのまんま無残絵になってしまったのはヤハリ天命というものだったろう。
……柳仙が国禁の絵を描いている事はトックの昔から睨んでいた。しかしイクラ忠告をしても止めないばかりでなく、県内の有力者の勢力なんかを利用して盛んに高価《たか》い絵を売り拡げて行くので、俺は実をいうとホントウに柳仙の厚顔《あつかまし》さを憎んでいた。ナンノ柳仙を見付から追出すくらい何でもなかったんだが、ただお前の可愛さにカマケていたばかりなんだ。それから先の事は自然の成行《なりゆき》で、大和の国に居る柳仙の親類なんかは一人も寄付かなかったんだから仕方がない。生蕃小僧から怨まれる筋合いなんか一つもないばかりでなく、俺はお前を無事に育て上げるために、生命《いのち》がけで闘わなければならない身の上になってしまった。俺が朝鮮に隠れてピストルの稽古をして来た事を、生蕃小僧が知っていなかったら、俺もお前もトックの昔に生蕃小僧にヤッツケられていたろう。
……ところが、それから後《のち》、四五年経つと流石《さすが》の生蕃小僧も諦らめたと見えて、バッタリ脅迫状を寄越さなくなった。彼奴《あいつ》から脅迫状が来るたんびに俺はすこしずつ金を送ってやる事にしていたんだから不思議な事と思ったが、もしかすると自分の怨みが藪睨みだったのに気付いたのかも知れない。それとも病気で死ぬかどうかしたのじゃないかと思うと、俺は急に気楽になって本当の活躍を初め、今の地位を築き上げたものなんだが、その十幾年後の今日《こんにち》になって突然に又生蕃小僧から脅迫状が来はじめたのだ。しかも俺にとっては実に致命的な意味を含んだ脅迫状が……」
「エッ……チョチョチョット待って下さい」
江馬兆策は感動のあまり真白になった唇を震わした。
「そ……それもホントなんですか」
「ホホホ……みんな真実《ほんとう》なのよ。最初から……まだまだ恐ろしい事が出て来るのよ。これから……」
「……………」
「シッカリして聞いて頂戴よ。是非とも貴方に脚色して頂いて、大当りを取って頂きたいつもりで話しているんですからね」
「……………」
「……その脅迫状というのは、最初は極く簡単なものだったのです。一週間ばかり前に来たのは普通の封緘葉書で金釘流で『大正十年三月七日を忘れるな……芝居じゃないぞ』といっただけのものだったそうですが、それから後に二三回引続いて来たものは、相当長い文句のチャンとした書体で、とてもとても恐ろしい……私達の致命傷と云ってもいい文句でしたわ」
「……ど……ど……ドンナ……」
「ホホホ。アンタ気が弱いのね。そんなに紙みたいな色にならなくたっていいわ。あのオ……チョイト……ボーイさん。ウイスキー・ソーダを一つ……大至急……」
江馬兆策はホッと溜息をした。顔中に流るる青白い汗をハンカチで拭いた。
「ホホホ。落付いてお聞きなさいよ。モウ怖いことなんかないんですからね。犯人が捕まって片付いちゃったアトなん
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