であったばかりでなく、毎日毎日手入れをしておかなければならぬ位ヒドイ怨みであった事が想像出来るじゃろう。ところでその轟氏が恐れている相手が、向うの窓を轟氏の手で開けさせて這入って来たのに、轟氏はそのピストルを手にしておらぬのみならず、自分で窓の締りをあけて導き入れたものとすれば、その人間は被害者の轟氏にとって、よっぽど恐ろしい人物であったという事になる」
「そんなに恐ろしい脅迫力を持った人間が、この世の中に居るものでしょうか。自分を殺しかねない相手という事が、被害者にわかっていれば尚更じゃないですか」
「そこだよ。そこに何となく大きな矛盾が感じられるからね。判検事も司法主任も相当弱っていたらしいんだが、間もなくその矛盾が解けたんだ」
「ほう……どうしてですか」
「わからんかい」
「わかりませんねトテモ。想像を超越した恐ろしい事件としか思えませんね。これは……」
「ナアニ。それ程の事件でもなかったんだよ」
「ヘエ。どうしてわかったんです」
「その事務机《デスク》の曳出《ひきだし》を全部調べたら、右の一番下の曳出から脅迫状が出て来たんだ」
「ホオー。何通ぐらい出て来たんですか」
「それがソノ……タッタ一通なんだ。僕はよく見なかったが、司法主任の横からチョット覗いてみると普通の封緘《ふうかん》ハガキに下手な金釘《かなくぎ》流でバラリバラリと書いたものじゃったよ。表書《うわがき》は単に大森山王、轟九蔵様と書いて、差出人の処書《ところがき》も日附も何もない上に、消印《スタムプ》がドウ見てもハッキリわからん。一時は良かったが近頃の郵便局の仕事はドウモ粗慢でイカンね。司法主任はスッカリ憤《おこ》っとったよ。当局に申告して消印《スタムプ》のハッキリせぬ集配局を全国に亘って調べ出してくれると云っておったが……」
「中味にはドンナ事が書いてあったんですか」
「ただコレだけ書いてあった。大正十年三月七日……芝居ではないぞ……と……」
「大正十年三月七日……芝居じゃない……」
「ウン。そうだ。それから泣いている娘……だか何だかわからんが、世間からは娘と同様に見られとるからそのつもりで話するが……その娘の甘木《あまき》三枝こと天川呉羽嬢を呼出して、その脅迫状を見せるとコンナ字体についてはチットモ記憶がない。文句の意味も何の事やらカイモクわからぬ。前にコンナ手紙が来たような事実も記憶しておらんと云う」
「成る程。……そこでサッキの呉羽嬢のお祈りの文句に触れてみたかったですな。何か参考になる事を喋舌《しゃべ》らして……」
「ウン司法主任がチョット触れていたよ。ちょうどその時に、女中を訊問していた刑事の梅原君が、その事に就いて取あえず報告したもんだからね……すると果せる哉《かな》だ。……あれは妾《わたし》があの時|口惜《くや》し紛れにそう申しましただけの事で、女の妾に何がわかりましょう。犯人が出て行った方向を拝みましたのは、そうすると遠くに居る犯人が何となくドキンドキンとして思わぬ失策を仕出かすという迷信が、外国の芝居に使ってありましたのでツイ、あんな事を致しまして……と真赤になって弁解しておった。だから、つまり目的は宣伝に在ったのだね。これは彼等の本能なんだから、深く咎めるには当らないよ。司法主任も検事も苦笑しておったよ」
「ソレッキリですか」
「イヤ……それから呉羽嬢はコンナ事を云い出しおった。……ハッキリとは申上られませんが、轟はこの四五日前から何だかソワソワしていたように思います。今までドンナ悲況に陥っておりましても、私を見ると直ぐにニコニコして何か話かけたりしておりましたものが、この頃はソンナ気振《けぶり》も見せませぬ。ただ緊張した憂鬱な、神経質な顔をして、私が何か云おうとしましてもチラチラと瞬《またた》きした切り自分の部屋へ逃込んで行きます。もちろん、その原因は私にはわかりかねますが、轟の劇場関係と、財産[#底本では「財閥」と誤記]関係の仕事は皆、呉服橋劇場の支配人の笠圭之介《りゅうけいのすけ》さんが一人で仕切って受持っておられます。大正十年の三月七日といえば、私が三つの年の事ですから、何事も記憶に残っておりませぬ。私はその三つの年に何かの事情で、年老《としお》いた両親の手から引取られて轟の世話になって来ておりますので、それから今年までの二十年間、轟は独身のまま私を育てるために色々と苦労をしておりますが、詳しい話は存じませんと巧妙に逃げおった」
「何か隠している事があるんじゃないですか」
「それがないらしいのだ。劇場主なんちういうものは一般の例によると相当複雑な生活をしているもんじゃが、今の呉羽嬢や、女中達や、支配人の笠圭之介の話なんかを綜合すると、この被害者ばかりは特異例なんだ。轟九蔵氏に限って非常に簡単明瞭な日常生活である。劇場付の女優に手を
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