前に展開しあらわす時、諸君の脈搏を如何に乱打させ、諸君の血管を如何に逆流させ、全身を粟立たせ、頭髪を竦立《しょうりつ》せしめるであろうか。凄愴感、妖美感に昏睡せしむるであろうかは、筆者の想像の及ぶところでないであろうことをここに謹んで付記しておく。九月 日 江馬兆策識」[#『江馬兆策識」』は地付き]
[#ここで字下げ終わり]
 なおそうした記事の中央に在る血潮の滴る形をした真赤な?符《ぎもんふ》[#ルビは「?符」に掛かる]の輪の中に髪を振乱した呉羽嬢がピストルを真正面に向けて高笑いしている姿が荒い網目版で印刷してあった。

「まあ。お兄さま」
「おお。美鳥《みいちゃん》。御機嫌よう」
「まあ……今夜の入場者《いり》タイヘンじゃないの。コワイみたいじゃないの――」
「ウン。呉服橋劇場空前のレコードだよ」
「あたし此席《ここ》へ来るのに死ぬ思いしてよ。正面の特等席て云ったんですけど、入口から這入ろうとすると押潰されそうになるんですもの。ヤット寺本さんに頼んで楽屋口から入れてもらったのよ……ああ暑い……ずいぶんお待ちになって……」
「イヤ。ツイ今しがたここへ来たんだ」
「あら。お兄様ずいぶん日にお焼けになったのね」
「ヤット気が付いたのかい。フフフ。これあ温泉焼けだよ。紫外線の強いトコばかり廻っていたからね。お前は元気だったかい」
「ええ。モチよ。あたし四五日前から神戸に行ってたのよ。そうして今朝《けさ》、家《うち》へ帰ってから、貴方の電報を見てビックリしてここへ来たのよ」
「神戸へ何しに行ったんだい」
「それが、おかしいのよ。六甲のトキワ映画ね。あそこから大至急で秘密に来てくれってね。あのアルプスの主婦《ママチャン》の妹さん……御存じでしょう。会計をやってらっしゃる貴美子さん……いつも妾達《わたしたち》によくして下さる。ね……あの人に頼まれたもんですからね。貴美子さんと二人で行ってみたらトテモ大変な目に会わされちゃったのよ」
「何か唄わせられたのかい」
「それが又おかしいのよ。着くと直ぐに美容院の先生みたいな人が妾を捕まえて、お湯に入れて、お垂髪《さげ》に結わせて、気味の悪いくらい青白いお化粧をコテコテ塗られちゃったのよ」
「ハハア。スクリン用のお化粧だよ。それじゃあ……エキストラに雇われたんだね」
「ええ。そうらしいのよ。筋も何もわからないまんまに、美術学校のバンドを締めさせられて、学校の教壇みたような処へ立たされて『蛍の光』を日本語で歌わせられたの……そうして三分ばかりして歌が済んじゃったら監督みたいな汚ない菜葉《なっぱ》服の人が穴の明《あ》いたシャッポを脱いでモウ結構です。アリガトウ……って云ったきりドンドン他の場面を撮り初めるじゃないの。おまけに皆《みんな》して妾をジロジロ見ているでしょう。貴美子さんはソコイラに居ないし、帰り道は知らないし、妾、どうしていいかわからなくなっちゃって、モウ些《すこ》しで泣出すところだったのよ」
「馬鹿だね。エキストラなんかになるからさ」
「そうしたらね。その中《うち》にどこからかヒョックリ出て来た貴美子さんが、妾をモウ一度お湯に入れて、身じまいを直させている中《うち》に、頬ペタに赤|痣《あざ》のある五十位の立派な紳士の人が、セットの中で、妾に近付いて来てね。妾に名刺を差出しながら、どうも飛んだ失礼を致しました。こちらへドウゾと云ってね。妾と貴美子さんを自動車へ乗せてミカド・ホテルへ連れて行ってサンザ御馳走をして下すった上にね。京都や大阪や奈良あたりを毎日毎日、御自分の高級車で同乗して、見物させて下すったのよ。どこか貴方とお兄様とで、別荘をお建てになりたい処があったら、御遠慮なく仰言って下さいって……トテモお兄さまの脚本を賞めてらしたわ」
「オイオイ。お前ドウカしてやしないかい」
「イイエ。ほんとの話なのよ。そうして帰りがけにトテも立派なリネンの洋服と、ダイヤの指輪と、舶来の帽子とハンドバッグと、靴と、トランクと、一等寝台の切符と……」
「チョット待ってくれ美鳥《みいちゃん》……イヨイヨおかしい。美鳥《みいちゃん》は僕の留守に、竈《へっつい》の神様へ唾液《つばき》を吐きかけるか何かしたんだね」
「アラ。そんならお帰りになってから品物をお眼にかけるわ。また、そのほかにお金を千円頂いたのよ」
「タッタ三分間でかい」
「ええ。ここに持ってるわ」
「馬鹿。いい加減にしろ」
「あら。お聞きなさいったら……それから帰って来てロッキーの支配人にお眼にかかって、そんなお話をしたら……貴美子の奴、飛んでもないイタズラをしやがる……ってね。真青になって聞いてらしったわ。そうしてイキナリ私の前に手を突いて、どうもありがとう御座いました。よく帰って来て下さいました。あの人にかかっちゃ叶いません。どうぞ、これから後《の
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