けていたんだ。コレ。この通り、椅子の背中に少しばかり血が附いとるじゃろう。被害者轟九蔵氏が、昨夜遅く机にかかって仕事をしている最中に、犯人が背後から抱き付いて、心臓をグッと一突き殺《や》ったらしいんだ」
「仲々|手練《てだれ》な事をやったもんですなあ」
「ピストルを使わぬところを見ると犯人も何か後暗い疵《きず》を持っていたかも知れんテヤ」
「さあ。どんなものでしょうか」
「とにかく尋常の奴じゃないよ。急所を知っとるんじゃから」
「兇器は……」
「兇器は今、署へ押収してあるが、新聞にも掲《で》ている通りこの机の上に在った鋭い、薄ッペラな両刃《もろは》のナイフだよ。僕もその死骸に刺さっとる実況を見たがね。左の乳の下から背中へ抜け通ったままになっていた。ホラこの通りこの血の塊《かた》まりの陰にナイフの刺さった小さい痕《あと》があるじゃろう」
「刺し方が猛烈過ぎやしませんか」
「むろんだとも。相当、兇悪な奴でも不意打にコレ程深くは刺し得ない筈だよ。それに死骸の表情が非常に驚いた表情じゃったし……」
「ヘエ。殺された当時の表情は、やっぱり死骸に残るものですかなあ。よく探偵小説なんかに書いてありますが」
「残るものか。僕の経験で見ると死んだ当時の表情はだんだん薄らいで、一時間も経つとアトカタもなくなるよ。僕の見た轟氏の死相《しにがお》はスッカリ弛んで、眼を半分伏せて、口をダラリと開けたままグッタリとうなだれて机の下を覗いていたよ。僕の云うのはその手足の表情だ。ハッとして驚くと同時に虚空を掴んだ苦悶の恰好が、そのまんま椅子の肱《ひじ》で支えられて硬直しておったよ。新聞記者には向うの寝台へ寝かしてから見せたがね」
「ナイフの指紋は……」
「無かったよ。犯人は手袋を穿めていたらしいんだね。それよりも大きな足跡があったんだ。モウ拭いてしまってあるが、向うの北向きの一番左側の窓から這入って来たんだね。ところでこの辺では昨夜の二時ちょっと前ぐらいから電光《いなびかり》がして一時間ばかり烈しい驟雨《しゅうう》があったんだが、その足跡は雨に濡れた形跡がない。ホコリだらけの足跡だからツマリその足跡の主は推定、零時半|乃至《ないし》一時四十分頃までの間にあの窓から這入って来た事になる。ところで又その足跡が頗《すこぶ》る珍妙なんで、皆して色々研究してみたがね。結局、地下足袋か何かの上から自動車のチュ
前へ
次へ
全71ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング