信が這入《はい》ってると思うかって機関長に喰《く》ってかかったんだそうだ」
「機関長は何と云った」
「ヘエエッて引き退《さが》って来たんだそうだ」
「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威《おど》かしゃあいいのに」
「駄目だよ。ウチの船長《おやじ》は会社の宝物《ほうもつ》だからな。チットぐれえの気紛《きまぐれ》なら会社の方で大目に見るにきまっている。船員《のりくみ》だって船長《おやじ》が桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」
「それあそうかも知れねえ」
「だからよ。晩香坡《バンクーバ》に着いてっからS・O・Sの女郎《めろう》をヒョッコリ甲板《デッキ》に立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰《く》らわせようって心算《つもり》じゃねえかよ」
「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命《いのち》がけじゃねえか」
「まったくだよ。船長《おやじ》はソンナ事が好きなんだからな」
「機関長も船長《おやじ》にはペコペコだからな」
「ウムウム。この塩梅《あんばい》じゃどこへ持ってかれるかわからねえ」
「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」
「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」
「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」
 コンナ会話を主檣《メインマスト》の蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧《のうむ》に鎖《とざ》されたような気になって……。

 それから三日ばかりした真夜中から、波濤《なみ》の音が急に違って来たので眼が醒《さ》めた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年|寝床《ベッド》の中に起上《たちあが》った。
 同時に船橋《ブリッジ》から電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛《むてき》をやめる。探照燈を消す。機関室は生き上《あが》ったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。
「石炭はドウダイ」
「桑港《シスコ》まで請け合うよ。霧は晴れたんかい」
「まだだよ。海路《コース》は見通しだが空一面に残ってる
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