とした低い声で云った。
「……ヨシッ……行けッ……」
「ウワア――アッ……」
と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響《ひびき》、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否《いな》、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交《まじ》っているのを予感していたのだね。
しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。
「ギャア――。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」
「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」
「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家《うち》に居るんですから……」
伊那少年は濡《ぬ》れたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。
「ウハハハハ。何を吐《ぬ》かすんだ小僧。心配《しんぺい》しるなって事……俺《おら》が引受けるんだ。この兼《かね》が受合《うけお》うたら、指一本|指《さ》さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」
兼は横に在った露西亜《ロシア》製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊《つる》した。小雨《こさめ》の中で金モール服がキリキリと廻転した。
「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」
「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」
兼は大口を開《あ》いて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛《こわ》ばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額《ひたい》の向疵《むこうきず》までが左右に開《ひら》いて笑ったように見えたので……。
「……サ柔順《おとな》しく働らけ。誰も手前《てめえ》の事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」
小雨の中に肩をすぼめて艙口《ハッチ》を降りて行く伊那少年の背後《うしろ》姿は、世にもイジラシイ憐《あわ》れなものであった。
そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。
犬吠埼《いぬぼうさき》から金華
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