の生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後《うしろ》の空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽《タンク》の鉄蓋《てつぶた》まで突き抜けた鉄骨の隙間《すきま》に、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気《スチーム》の鉄管《パイプ》が一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸《いき》が詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後|大火傷《おおやけど》だ。そこに濛々《もうもう》と渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊《つる》した二百|燭光《しょく》の電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠《すみかご》を担いで往復してから急に上甲板《じょうかんぱん》の冷《つ》めたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒《た》おれるんだ。ところがブッ倒《た》おれたと見ると直ぐに、兄イ連《れん》が舷側《ふなばた》に引《ひき》ずり出して頭から潮水《しおみず》のホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。
「見やがれ。コン畜生《ちくしょう》。死《くた》ばるんなら手際よくクタバレ」
 といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数《にんず》で限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券《こけん》にかかわるんだから止《や》むを得ない。所謂《いわゆる》、近代文明って奴の裡面《りめん》には到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。
 その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込《つみこ》む石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服《なっぱふく》を真黒にした二等機関士《セカンド》のチャプリン髭《ひげ》が、喘《あえ》ぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。
「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」
 と一喝《いっかつ》すると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。
「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」
「……でも船長室のボーイが遊んでいます」
「あんな奴が何の役に立つんだ」
「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なん
前へ 次へ
全27ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング