といううちに無茶先生はグルリと崖のふちをまわって、その家《うち》の門の口へ来ました。
 見るとこの家《うち》の主人は五十ばかりのお爺さんですが、独身者《ひとりもの》と見えてお神さんも子供も居ず、たった一人で一生懸命鉄槌で鉄敷《かなしき》をたたいて、テンカンテンカンと蹄鉄を作っています。それを見ると無茶先生は大きな口を開いて、
「アハハハハハ。テンカンテンカン」
 と笑いました。
 鍛冶屋のお爺さんは不意に門口《かどぐち》から笑うものが居るので吃驚《びっくり》して顔をあげて見ますと、髪毛と髭を蓬々とさした真裸体《まっぱだか》の男が鞄を一つ下げて立っておりますので、大層腹を立てまして怒鳴り付けました。
「何だ、貴様は」
「おれは山男だ」
「山男が何だって鞄を持っているのだ」
「この中にはおれが山の草で作った薬が一パイに詰まっているのだ。どんな病気に利く薬でもあるのだ」
 これをきくと鍛冶屋の爺さんは急にニコニコしまして、
「それあ有り難い。それじゃテンカンに利く薬もあるだろうな」
 とききました。
 無茶先生はトボケた顔をして、
「テンカンとはどんな病気だ。鉄槌で物をたたく病気か」
 と尋ねますと、爺さんは頭を掻きながら、
「そうじゃない。不意に眼がまわって、引っくりかえって泡を吹く病気だ。わたしはその病気があるためにお神さんも貰えずに、たった一人で鍛冶屋をしているのだ」
 と云ううちに泣きそうな顔になりました。
「ウン、その病気か。それならたった一度で利く薬がある。けれども只では遣れないぞ」
「エエ。それはもう私に出来ることでお前さんの望むことなら、何でも御礼にして上げる」
「それじゃ、まずこの仕事場を日の暮れるまで貸してくれ。それから町へお使いに行ってもらいたい」
「それはお易い御用です。今からでもよろしゅう御座います」
「よし、それではこの薬を飲め」
 と、鞄の中から何やら抓《つま》んで、鍛冶屋の爺さんの掌《てのひら》に乗せてやりました。
「ヘイヘイ。これは有り難う御座います」
 とピョコピョコお辞儀をしながらよくよく見ましたが、不思議なことに何べん眼をこすってもそのお薬が見えません。
「これは不思議だ。私の眼がわるくなったのか知らん」
 とお爺さんは独言《ひとりごと》を云いました。
「見えるものか」
 と無茶先生は笑いました。
「それは人間の眼には見えないほど
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