より先にこの宿に泊っている人でこの宿屋は一パイなのです」
「この野郎、嘘を吐《つ》くか」
 とその人々は騒ぎ立ちました。
「貴様はうるさいものだからそんなことを云うのだ。泊めないと云うなら、表を押破って這入るぞ」
 といううちに、われもわれもと番頭を押しのけてドンドン中へ這入って来ました。
 これを聞くと豚吉はふるえながら、
「どうしよう」
 といいます。ヒョロ子も何ともしようがないので、互に顔を見合わせておりますと、そのうちに下からドカドカと大勢の人が上がって来るようです。
「どこだどこだ」
「下の方には居ないようだ」
「二階だ二階だ」
 といううちに、五六人ドカドカと二階の梯子段を飛び上って来る音をききますと、ヒョロ子は慌てて豚吉の方へ背中を向けて、
「サア、私におんぶなさい」
 と云いました。そうして、
「どうするのだ」
 と驚いている豚吉を捕えて背中に負うて、そこにあった帯で十文字にくくり付けますと、すぐに窓をあけて屋根の上に飛び出しました。
 これを見付けた往来の人々は大騒ぎを初めました。
「ヤア。屋根に出て来たぞ。しかも男が女に背負《おぶ》さっているぞ。みんな出て来い。見ろ見ろ」
 と口々に叫びました。
 ヒョロ子はそれを見るとすぐに隣の屋根にヒョイと飛び移って、屋根を伝って、又その先の屋根へヒョイと飛び移って行きました。そうすると、これを見付けた宿屋の番頭が又大声を出して、
「ヤア。あの夫婦は喰い逃げだ。喰い逃げだ。みなさん、捕まえて下さいッ」
 と叫びました。
「ソレッ、捕まえろ」
 と、大勢の見物人も屋根伝いに逃げる二人のあとから往来の上をドンドン追っかけ初めました。
 こうなるとヒョロ子も一生懸命です。屋根から屋根、軒から軒と、重たい豚吉を背負ったまま飛んでは走り飛んでは走りします。それを下から見物人が指さしながら、
「あっちへ逃げたぞ」
「こっちへ来たぞ」
 と面白半分に追いまわします。そのうちに通りかかりの人々は皆、屋根の上を走る奇妙な夫婦の姿を見て驚いて、みんなと一所に走り出しますので、人数はだんだんに殖えるばかり。しまいには何千人とも何万人ともわからぬ位になって、ワアワアワアワアワアと町中の騒ぎになりました。
 けれども、遠く離れた往来を通っている人には何事だかわかりません。
「何という騒ぎだろう」
「戦争でしょうか」
「鉄砲の音がしない
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