しかしこの頃になって、郊外が万事に不便なのと、道路が悪いので、少し位家賃が高くとも構わずに市内に引返す人が殖えて来た。そのために郊外に空屋が殖《ふ》えて来て、家賃がドシドシ下落するという。
 不良連中もこの春あたりからポツポツ市内に引返すであろう。
 ところで、「不良」と「善良」との区別は一見してなかなか付きにくいので、当局でも家庭でも困っている。何でもないのに不良|気取《きどり》のが居る一方に、不良の方でも研究して、そう見られまいとするからとてもわからない。

     鳥打帽と制服の特徴

 一般に、震災前と震災後とは、東京人の風俗に一大変化を来した。改め切れなかったものが、あの大きなショックで改められたのだと、学校当局や警視庁では云う。しかし、今一層これを深刻に見れば、物質的方面ばかりでなく、精神的方面にもそうである。殊に、堕落気分を持ちながら実行出来なかったものが、あのドサクサに紛れて思い切って堕落したとも見られる。
 或る呉服屋で震災後、絹の上物一切を倉庫にブチ込んだ。こんなものは当分売れまいと思っていたら、豈《あに》計らんや。十日にならぬ中《うち》に売り切れてしまったという。ザッとそういったような気持ちの変り方である。
 その中《うち》に不良のスタイルが生み出された。
 学生間に於ける鳥打帽の大流行は、カフェー、活動、その他に横溢している享楽気分にふさわしい気分のあらわれである。その冠り方や柄で不良かどうかはわかると、狃《な》れた刑事は云う。
 同様に制服にも不良化傾向が現われた。昨年の秋あたり、制服の詰め襟の背を割いて、袖口を腕の処よりも広くした、所謂|喇叭《ラッパ》袖を尾行して行くと、大抵不良行為を発見したと、警視庁の捜索課では云う。甚だしい学生は、制服の背中の中央近くまで裂いているのがあった。袖口を裂いたのもチョイチョイ見受けたと云う。

     不良少女の服装と着こなし方

 不良少女の服装はまちまちで、その筋でも見当が付かぬらしい。職業婦人が出て来て、矢鱈《やたら》と風俗を突飛にするので、いよいよわからなくなるという。成程と思わせられる。
 オールバックに濃化粧、漆《うるし》のような引き眉に毒々しい頬紅口紅をつけ、青地か紫色の綿紗に黒手袋、白絹模様入りの靴下に白鞣《しろなめし》の靴の踵《かかと》を思い切り高くして、虹のようなショールを波打たせながら八方に眼を配って行く……といったような女学生をいきなり不良とは断定できぬ。
 しかし、記者の見たところを綜合すると、不良少女は割合に狭い帯を締めているようである。これは胸のふくら味と下腹と尻との丸味を区切って見せるためで、昔流に広いシャンとした帯で、その辺から受ける肉感を芸術的に殺して終《しま》うのと正反対の行き方である。そのために羽織の紐の付処《つけどころ》と締《しめ》加減に巧な手加減がしてあって、どことなく洋服の感じが取り入れてあるように見える。
 同時に、昔は襟足を見せて美感をそそったものを、彼女たちは反対に襟元を心持ちくつろげて、襦袢《じゅばん》の襟を大きく見せながら反《そ》り身になって歩くようである。これは新しい女や外交官の夫人なぞによくある着こなし方である。又は、舶来のフイルムに出て来るキモノの感じを学んだものであろう。裾が長くて締りのないのは云う迄もない。
 但、こんな着こなし方は、強《あなが》ち不良ばかりに限ったわけでもないようである。

     歩き方に現われる特徴

「不良」の中でも、屈指の少女は却《かえっ》て質素な風姿《なり》をしている。
 西洋の諺か何かに、
「本当の悪魔は平凡な人間に見える」
 とあるが、事実かも知れぬ。とにかく、普通の少女と不良少女の区別は出来ないと云った方が早わかりである。
 唯ここに一つだけ、殆ど不良少女に限られた特徴がある。それは足の運び方である。それも、和服に袴《はかま》で靴を穿いている場合に限って見分けられる位、微妙なものである。
 不良少女が行くのをうしろから見ると、所謂「内がま」とも「外がま」とも付かぬ。それかといって真直《まっすぐ》でもない。心持ち爪先が外を向いたり、内を向いたり、一足毎に一定せぬ。
 又、踵を卸《おろ》して次に爪先を地に付ける時、何となくパタリとして力無く見える。普通の少女だと、往来をあるく時は多少に拘らず緊張しているから、爪先を先につけるか、又は爪先と踵を同時に落すところである。
 不良少女のはその腰から股《もも》のあたりにも緊張味がなく、膝の関節の曲り加減が、急ぐともなく、ゆっくりするともなく見える。注意して見ると、サッサとあるく時にもこの気持ちがある。要するに、腰から下の三段の関節に一種の締りが抜けた歩き方と云えば、あらかたわかると思う。
 これは、「普通の家庭に育った少女の不良気分」が、歩き方に反映したものと思う。職業婦人のだともっと硬《こわ》ばるか、ゾンザイに見えるかして、どちらかと云えば男性化した気分があらわれている。
 あれが不良少女と、記者に指さし示された女学生は、一人を除いたあと全部が、この特徴を持ったあるき方をしていた。股《また》をすぼめて恥かし気に歩いて、処女を気取る不良少女は一人も居なかった。

     東京の土を踏んでドキドキと躍る心

 大正十二年の秋以後、東京は特に夥しい人間を吸収した。その中にまじる少年少女は片端から不良化した。そうして本物の不良をドシドシ殖やした。
 その順序を考えて見ることは、この稿の最重要な使命の一つと思う。
 第一、田舎から出て来た少年少女は、永らく東京に住んでいる家庭の子女より堕落し易いというが、さもありそうに思われる。
 少々惨酷な云い方ではあるが、しっかりした身よりがあって東京に来たのは別として、只|無暗《むやみ》に東京にあこがれて吾家《うち》を飛び出したりするのは、東京に着かぬ前から不良性を帯びていると云っていい。田舎を嫌ったり、窮屈がったりして飛び出した気持ちには、既に不良性の種子《たね》が宿っている。「何でも東京へ」とあこがれる気持ちの裡面には、自堕落によく似た自由解放や、虚栄と間違い易い文化的生活に対する欲望がチラ付いている。
 あこがれの東京に着く。
 震災後、思い切って華やかになった東京のすべては、彼等の眼を驚かし、耳を驚かす。面喰らって感じてドキドキキョロキョロする。
 その中《うち》に落ち付いて来る。
 新聞や雑誌で見聞きした東京の風物が、一々実物となって彼等を魅惑し始める。欲しいものがいくらでもある。好ましい男女の姿、羨ましくも自由に楽しげなその身ぶりそぶり、そのまわりに光り、かがやき、時めき、波打つもののすべては、彼等の心を惑わせ、狂わせ、躍らせずには措かぬ。その中《うち》でも「不良性」は真っ先にこの刺戟に感じ易い。

     自分の心から生存競争の邪道へ

 田舎出の少年少女は、東京の「不良」の誘惑がどんなに恐ろしいかを知っている。そんな忠告をうるさがりながらも、自分の清浄|無垢《むく》を信じている。「だから東京に行っても差支えはない」と思う……その心の奥に不良の種が蒔《ま》かれている事を気付かずにいる。そうして、只東京の「不良」の誘惑ばかりを警戒している。
 ところが、東京で出来た知り合いの中に不良らしいのは一人も居ない。同時にその友達の中に、この偉大な大都会を物とも思わぬ少年少女があって、面白く親切にいろんな事を教えてくれるのが居る。そんな友達の話を聞いていると、何でも東京でなければならぬように思われて来る。つい感心して夢中になってつき合っている中《うち》に、今まで悪いと思っていた事がいつの間にか悪いと思えなくなる。
 殊に東京でエライと云われる大人は、白昼堂々とそんな事をやっている。それが最新式だの、文明式だのと持てはやされている。そんなのを見たり、真似たりして、天晴れ東京通になって、田舎者を馬鹿にしている時は、もう平気で「不良」をやっている時である。「自分の不良性」が「東京の不良性」と共鳴して、自分を不良化してしまっている時である。
 この時に自覚しても最早《もう》遅い。
 友達を怨んでも、東京を呪っても追付かぬ。学校は追い出されている。故郷《くに》からの送金は絶えている。イヤでも不良かゴロに仲間入りしなければやり切れなくなっている。
 いよいよ不良が上達する。
 生存競争の邪道に陥る。
 ……といったような順序である。

     押え切れぬ勇気や智恵

 又、こんな風にして本物の不良は出来る。
 生れ付き智恵や勇気があり余った青年、自分の美貌や才智にうぬぼれた少女等は、よく平凡な田舎を嫌って東京に飛出す。しかし、そこで仕事に有り付いて、コツコツと働いて、結婚して、子供を設けて、平和な家庭を……そんな事で満足出来ない。
 何でも強い刺戟を受け続けて行きたい。いつも大勢をアッといわせて見たい……そんなのを「東京」は待ち構えて「生存競争の邪道」に陥れる。東京にはそんな「生存競争の邪道」が横路地の数だけある。
 精神的に悪い境遇に育ったもの、生れ付きヒネクレたもの、又は、良心欠乏、無智なぞいう先天的の犯罪性を帯びたものも、静かな地方を嫌って東京に出て来る。曇った空気を恋い、彩られた光りを慕って、それからそれと飛びまわるうちに金箔付きの不良になる。こんなのになると、この節の教育や制裁では押え切れない。説教すれば、抗弁するか泣くかする。拘引さるれば却って箔をつける。

     善良が不良に急変

 前にも述べた通り、「不良性」は要するに「人間性の卑屈な表現」である。即ち不良性は直《ただち》に人間性で、逆に云えば人間として不良性を備えざるなしという事になる。孔子の「習《ならい》」、基督《キリスト》の「罪」、釈迦の「業《ごう》」等いう言葉は、この意味を含んでいはしまいかと思われる。
 この人間性、即ち不良性はいろんな因縁に依って善ともなり悪ともなるので、天性善良な素質を豊に備えた少年少女でも、一度不良的刺戟を受けると、存外容易に不良化する傾きがある。
 東京の二三署の刑事や部長が記者に話した事の中で、左の意味の処だけは共通していた。
「不良になった動機の中で、何の気もない少年少女が偶然に一度不良から被害を受ける。それがキッカケになって案外容易に不良化する。時と場合に依っては、良心の極めて鋭い少年少女がかなり甚だしい不良になっている場合さえある」
 云々と。尚、記者の見たところに依れば、良心の鋭いというよりも、気の小さい者が、一朝の刺戟で大胆な自暴自棄的境界に踏み込むことはあり得る。

     「不良化率」減少法

 たとえば或る少年か少女かが、何品《なにしな》かを不良少年に捲き上げられる。ところで父兄母妹にそれを発見されてはならぬ……というような申訳ない心の苦しみから、ツイ不良な方法でその捲き上げられた品に似たものを手に入れて当座を胡麻化す。その時に動いた不良性がそのまま静まらずに、一度二度と罪を重ねて、いつしらず不良になるといったようなのが極めて多い。又は自分が遣られた手口に感心をする。「巧いな」と思ったり、「あんなにやれたら面白いだろう」と思ったりする。つまり、自分の不良性を他人の不良性から誘発されて不良化するのも珍らしくないように見える。善良な少女が一朝の過失に身を汚されて心を悩ました揚句、良心や理智が昏迷し、麻痺して、遂に棄て鉢的の不良少女になる場合も亦《また》決して少くないと信ずる。
 尚、記者の見るところに依れば、このような動機で不良性を帯びた少年少女の中には、両親や何かの怒りや警戒、又は排斥的の冷たい待遇に依って、一層その不良化を早めたのが非常に多い。もしこのような少年少女にその教育の責任者が今少し強い忍耐力を持って、温かい、そうして明らかな教育を施したならば、どれ位その「不良化率」を減少したであろうかという事を記者は深く感じたことを付記しておく。

     東京の学生生活に狃《な》れ過ぎて

 大きな声ではいえないが、東京の学生生活に狃れ過ぎると不良になる
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