み込んでいる。

     不浄世界と紙一重

 職業婦人が見た実際の世界……それは、吾家の忠孝仁義から他家の温良貞淑へ渡されることに慣れていた、在来の日本婦人の大部分が夢にだも想像し得ないものであった。
 彼女たちは驚いたであろう。魘《おび》えたであろう。しかし、生活の鞭に追われて毎日毎日この社会に出入りしているうちに、彼女達は次第にこの不忠孝不仁義の気儘さに見慣れ、聞き慣れて来た。そうして、男と同様に社会に働く彼女たちには、矢張り男と同様に享楽する権利を与えられなければならぬ理由を認めた。
 彼女たちが男性の弱点――もしくは裡面というものを真実に知り得るのはこの時代でなければならぬ。あとは只、これに共鳴するかしないかという紙一重の境目《さかいめ》に彼女達は毎日毎日立たなければならなかった。
 しかし、因襲的につつましやかな日本婦人の血を受け継いだ彼女たちの大部分は、幾度《いくたび》か迷いつつ踏みこたえた。
 けれども又一方に、どうしても踏みこたえ得ない立場に陥ったのもあった。

     堕落を早めた地震

 彼女達職業婦人はどこに雇われたにしたところが、極めて低い階級に辛棒せねばならぬ。その収入や地位の向上はもとより、その首の切り継ぎまでも彼女達の上役の異性の手に任せねばならぬ。
 しかもその上役には彼女達の手腕よりも、彼女たちの美を求むるものが多かった。
 彼女達の中には、こうした余儀ない事情から、第二の職業を習いおぼえたものも少くなかったろう。否、職業婦人堕落の原因の中でも、こうした原因はかなりの重大さを持っていると見ていい。
 しかしそのほかの光明界に踏み止まった職業婦人――即ち第一の職業だけで満足し、且つこれを一生懸命護り固めて来た若い女性たちの大多数が、遂にその暗黒と光明を隔つる紙一枚の境を踏み破らなければならぬ時が来た。
 それは大正十二年の九月一日であった。
 読者は記憶しておられるであろう。大正十二年九月一日の大震火災後一二ヶ月の間、東京市中に婦人の戒厳令が布《し》かれた事を。勿論それは公式のものではないが、当局の達示によって自警団員が夜間婦人の外出を禁ずる旨を布告《ふれ》てまわった。

     婦人への戒厳令

「新宿、品川、吉原等の遊廓は潰れた。その他の醜業屋も大部分は焼けてしまった。各券番は休業した。東京のあらゆる街々は、夜になると飢えた狼が横行するに任せてある……」
 といったような風説、又は事実が口から口へ、又は新聞紙上にあから様に伝えられた。それ程に震災後の東京は飢《う》えていた。この飢に堪え得たものは教育ある上流人士よりほかにない。否、その上流の男女があの震災後如何に身を護りかねて来たか……堕落して来たかは前に述べた通りである。況《いわ》んや下層社会に住む職業婦人がどうして身を護り得よう。
 ライスカレー一皿で要求に応ずる女が震災直後に居た事は前に述べた。その後東京市中の秩序が回復して来るに連れて、そのライスカレー一皿の価十銭が五十銭となり、一円となり、五円となって来たことは云う迄もないが、しかし、それは只高価になった迄の事である。野天で売買されなくなっただけであることは云う迄もない。

     安飲食店激増の理由

 震災後の東京で最も増加したものが飲食店と自動車である事も前に述べた。殊に飲食店は東京市中のすべての半町|毎《ごと》に一つ宛《ずつ》位は必ずある。多いところは一町内の過半数が飲食店と云ってもいい位である。これ等の飲食店は一般東京市民の要求に依って出来たもので、市民と彼女達の仲介業者であった。結局、震災後の東京でその甚だしく増加した商売は、職業婦人の第二職業という事になる。
 彼女たちは現在でもこうした安飲食店から、高級な処ではカフェー、洋食店にまで行き渡って第二職業を本職としているのが多い。
 一方に復興の東京は彼女達職業婦人の多数を第一の職業に呼び返した。その上に更に夥しい新米の職業婦人を迎え入れた。震災の御蔭《おかげ》で第二の職業を知った職業婦人の多数と、まだ第一の職業しか知らぬ新米の職業婦人の多数とは、こうしてゴッチャになって東京の復興に努力し始めた。

     震災後の淫風と生活難の誘惑

 昔から大変災のあとに必ず吹き起る事になっている淫風は、蕩々として彼女達職業婦人を包んだ。第二職業の味を占めたものも、占めないものも、一様にポーッとなった。
 更に、バラック都市のアクドイ色彩は、夜となく昼となく彼女達を刺戟した。着物道楽の流行で、震災前よりも一層デカダン式にリファインされた男性の姿は、彼女達を朝な夕な眩惑した。
 第一の職業しか知らぬ新米の職業婦人は、次第に第二の職業を習いおぼえて来た。
 そればかりでない。
 震災後の東京に於ける生存競争が、震災前のそれより
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