増長させる。彼女達を高尚に、シッカリと、奇麗に、健康に育て上げようという指導者が次第に遠退いて行く。その結果が彼女達の服装に先ず現われる。
白粉《おしろい》を塗り過ぎる。しかし襟垢《えりあか》は残り勝である。
髪を大切にする。しかし毛の根は油でよごれている。
美しい着物を着る。しかし裾にしまりがない。
取り澄まして歩む。しかし眼づかいは下品である。
そのほか唇のしまり、好みの調和なぞ、彼女たちのダラシなさを挙げたら数限りもない。しかも現在の東京人は、こんな風に見える女をすぐに解放された女と認めて讃美するのである。そうして男同士の間では、
「彼女は職業婦人だよ」
と冷笑し合うのである。
洋装の流行と活動
職業婦人には時々洋装を見受ける。普通の婦人にも時々見かけるが、よく似合っているのは十人に一人もない。
洋装の生命とするところは、顔でもなく、尻でもなく、只首と足の恰好だそうで、その中でも足は最も大切な条件なのだそうであるが、日本人の足……殊に女の足は十人が十人駄目である。東京の女学校で汐干狩をやると、皆足を気にしてとやかく云うそうであるが、さもあろう。日本婦人がズングリムックリした、無暗《むやみ》に派手な洋装を尾張大根のような足で運んで行く恰好はあまりよくない。
おまけに彼女たちはダンスのダの字も知らないのだから、身体《からだ》のこなしが洋服とまるで調和していない。曰《いわ》く何、曰く何と、日本婦人の洋装批難の声はすべての男の批難の的になっている。それでも流行するのは、大方、活動の宣伝がきいているのであろう。
職業婦人の服装が派手になって行く訳
職業婦人の服装がどうしてこんなに派手になって行くか。どうしてそんな突飛な流行にまで突きつめて行くか。
これには大略三つの理由がある。
第一は彼女達が解放されていることである。彼女たちは金が自由になると同時に、親兄弟の意見を聴かないでも済む権利が出来た。即ち家庭から精神的に解放された。彼女たちは勝手なものを買って、好きに身を飾り得る境遇に這入った。一方、新東京の街頭には、原価の二倍以上の掛け値をした新織物や、新装身具が一パイに並んで彼女達を誘惑しているのである。抜け目のない商人たちはこう考えている。
「今の職業婦人は、今までの日本人の娘としては、真に驚く程の小遣いを持っている。
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