ニジンでいるぞ」
「あしこから小さな毒針を舌の先で刺しやがったんだろう。最前|殴《は》り倒おされた怨《うら》みに……」
「ソ……そんな事ねえ……」
「嘘|吐《こ》け。俺あ見てたんだぞ……」
 吾輩は実をいうとこの時に内心|頗《すこぶ》る狼狽《ろうばい》したね。タッタ今歯で引抜いた黒い毛は、どこかへ吐き出すか嚥込《のみこ》むかしてしまっている。よしんば歯の間に残っていたにしたところが、アンナ黒い毛がタッタ一本、親方の禿頭の中央《まんなか》に生《は》えている事実を知っていたものは、事によると吾輩一人かも知れないのだから、トテモ証拠になりそうにない。のみならずコンナ荒っぽい連中は一旦そうだと思い込んだら山のように証拠が出て来たって金輪際、承知する気づかいは無いのだから、吾輩はスッカリ諦らめてしまった。コンナ連中を片端《かたっぱし》からタタキたおして、逃げ出すくらいの事は何でもないとも思ったが、親方の死骸を見ると妙に勇気が挫《くじ》けてしまった。
「……ヨシ……文句云わん。タタキ殺してくんな。……その代り親方と一所に埋めてくんな」
「……ウム。そんなら慥《たし》かに貴様が親方を殺したんだな」

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