道の心得か何かあるらしい。吾輩の胸をドシンと突いたが、吾輩微動だにしなかった。向うに柔道の心得があればコッチにルンペンの心得がある。相手が用人棒だろうが何だろうが、身構えたら最後、金城鉄壁、動く事でない。
「……か……閣下は貴様のような人間に御用はない」
「ハハハ、そっちに用がなくともこっちにあるんだ」
「ナ……何の用だ……」
「貴様のような人間に、わかる用事じゃない。人柄を見て物を云え。何のために頭が禿げているんだ」
禿頭の色が紫色に変った。慌てて背後《うしろ》の扉《ドア》にガッチリと鍵をかけた。
「会わせる事はならん」
「八釜《やかま》しい」
と云うなりその紫色の禿頭を平手で撫でてやったら、非常に有難かったと見えて、羽織袴のまんま玄関の敷石の上に引っくり返ってしまった。その間に吾輩は巨大な真鍮張《しんちゅうば》りの扉《ドア》に両手をかけてワリワリワリドカンと押し開《あ》けた。そこから草原《くさはら》みたいな柔らかな絨壇の上に上って、背後《うしろ》をピッタリと締切ると、外でワンワンワンとブルドッグの吠える声と、自動車の中で女たちの悲鳴を揚げて脅える声が入り交って聞えて来た。ブルドッグという奴はいつでも気の利かない動物らしい。
癇癪くらべ
そんな事はドウデモ宜《い》い。吾輩はグングンと廊下に侵入した。暗い廊下の左右に並んでいる部屋を一つ一つ開いて検分して行く中《うち》に、一番奥の一番立派な部屋の中央に、巨大なロココ式ガラス張りのシャンデリヤが点《とも》っているのを発見した。
そのシャンデリヤの下に斑白《はんぱく》、長鬚《ちょうしゅ》のガッチリした面《つら》つきの老爺《おやじ》が、着流しのまま安楽椅子に坐って火を点《つ》けながら葉巻を吹かしている。写真で見たことのある唖川伯爵だ。七十幾歳というのに五十か六十ぐらいにしか見えない。嘗《かつ》ての日露戦争時代に、陸海軍大臣がハラハラするくらい激越な強硬外交を遣《や》っ付《つ》けた男で、この男の一喝に遭《あ》うといい加減な内閣は一《ひ》と縮みになったものだから痛快だ。成る程、掛矢《かけや》でブンなぐっても潰れそうもない面構えだ。取敢えず敬意を表するために、吾輩は山高帽を脱ぎながらツカツカと進み寄って、恭《うやうや》しく頭を下げた。
「……キ……貴様は……何か……」
まるで頭の上に雷が落ちたような声だ。頭を上げて見ると伯爵は安楽椅子から立上って、吾輩を真白な眼で睨み付けている。露国の蔵相、兼、外相ウイッテ伯を縮み上らせた眼だ。しかし吾輩は、わざと哄笑してみせた。
「アハハハ、私は鬚野房吉というルンペンです」
「……ナ……何だルンペンとは……」
「ルンペンというのは独逸《ドイツ》語です。独逸語で襤褸《ぼろ》の事をルンペンというところから、身なりとか根性とかがボロボロに落ちぶれた奴の事をルンペンというようになったのです。御存じありませんか。日本にも勲章を下げて、立派な家《うち》に住まったルンペンが、イクラでも居りますよ」
伯爵は立腹の余り口が利けなくなったらしい。葉巻をガチガチと噛んで、鬚をビクビク震わせている。
吾輩は、すこし気の毒になったから、心持ち言葉を柔《やわら》げた。
「伯爵閣下、実は今日お伺い致しました理由は、ほかでは御座いません。御令息の唖川歌夫君の事についてです」
「黙れっ……黙れっ……吾輩の家庭の内事は吾輩が決定する。貴様等如きの世話は受けんッ……」
吾輩はここに到ってカンシャク玉が破裂した。この老爺《おやじ》は外交問題と家庭の内事をゴッチャにしている。ドンナ豪《えら》い人間でも、自分の妻に関する事を他人から話出されたら一応は頭を下げて傾聴すべきものだ。
「ええこの馬鹿野郎。貴様等如きとは何だ。吾輩はこれでも一個独立の生計を営む日本国民だぞ。聊《いささ》かの功績を云い立てにして栄位、栄爵を頂戴して、無駄飯を喰うのを光栄としているような国家的厄介者とは段式が違うんだぞ。日露戦争の時には俺の発明した火薬が露助《ろすけ》にモノをいったんだぞ。日本の医学は吾輩の努力の御蔭《おかげ》で、今日の隆盛を来《きた》しているんだ。しかも吾輩は国家に何物をも要求しない。毎日毎日この通りのボロ一貫で、途《みち》に落ちたものを拾って喰ってるんだ。苟《いやしく》も君のためや、親子兄弟、妻子朋友のためになる事ならば無代償で働くのが日本国民だ。伯爵が何だ。正三位が何だ。そんな乾《ひ》からびた木乃伊《みいら》みたいな了簡だから、伜《せがれ》が云う事を聴かないで家《うち》を飛出すのだぞ」
女将の凄腕
多分顔負けしたんだろう、伯爵閣下は、よろよろとよろめいて背後《うしろ》の椅子にドシンと尻餅を突いた。病み犬が逃げ吠えするように、モノスゴイ眼で吾輩を睨んだ。
「黙れ
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