いないって母は申しておりましたが……ほんとに申訳ない、口惜しい口惜しいって申しておりましたが……」
そう云って吾輩を見上げた令嬢の眼に一点の露が光った。ナカナカ親孝行な娘だ。今度は抱上げて頭を撫でてやりたくなった。
「そこでアンタはそのお父さんに対する世間の誤解を晴らそうと思うているわけじゃね」
「そうなんですの……駄目でしょうかしら……」
なかなか大胆な娘らしい。決心の色を眉宇《びう》に漲《みなぎ》らしている。
犬のダニ
「さあ。ちょっとむずかしいなあ。世間の誤解という奴は犬のダニみたいなものじゃから……」
「まあ……犬のダニ……」
「そうじゃ。犬のダニみたいに、勝手に無精生殖をしてグングン拡がって行くもんじゃからね。皮膚の下に喰込んで行くのじゃから一々針で掘った位じゃ間に合わんよ。ウッカリ手を出すとこっちの手にダニがたかって来る」
「まったくですわねえ」
「ジャガ芋の茹《ゆ》で汁で洗うと一ペンに落ちるもんじゃが」
「まあ。ジャガ芋をどう致しますの」
「アハハ。それは犬のダニの話じゃ。鉄筋コンクリートなんぞに喰い込んだダニなんちいうものはナカナカ頑強で落ちるもんじゃない。七十五日ぐらいジッと辛抱しているとダニの方がクタビレて落ちてしまう事もあるが……」
「それがその七十五日なんか待ち切れないので御座いますの。その中《うち》でも或るタッタ一人の方の誤解だけは是非とも解いてしまいませんと、わたくしの立場が無くなるんですの。……でも……それがタッタ一匹の犬から起った事なのですから……スッ……スッ……」
令嬢の眼からポロリポロリと光る水玉が辷《すべ》り落ち初めた。
どうも考えてみると変った娘があればあるものだ。通りがかりのルンペン親爺《おやじ》を応接間に引っぱり込んで最極上の葉巻《ハヴァナ》と珈琲《コーヒー》を御馳走して、生命《いのち》よりも大切な涙をポロポロ落して見せるなんて、だいぶ常識を外《はず》れている。ことによるとこの少女はキチガイの一種である早発性痴呆かも知れないと思った。
「ハハア。面白いワケじゃな……一匹の犬に関係している。タッタ一人の誤解が……」
「そうなんですの……そのタッタ一人の方に誤解される位なら妾死んだ方がいいわ……スッ……スッ……」
「ちょっと待ってくれい。もうすこし落付いてユックリ事情を話してみなさい」
お惚気
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