し勘太郎はもうすっかり飢え疲れて、眼が見えなくなって来ました。あっちへ行っては石に引っかかり、こっちへよろけては樹にぶっつかり、ヒョロヒョロして行くうちに、とうとうどこだかわからぬ処でバッタリ行きたおれてしまいました。
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小さな虫を救うても
救うた生命《いのち》は只一つ
象の生命《いのち》を助けても
助けた生命《いのち》は只一つ
虫でも象でも救われた
その有り難さは変らない
虫でも象でも同様に
助けた心の美しさ

人の生命《いのち》を助くるは
人の心を持った人

虫の生命《いのち》を助くるは
神の心を持った人

みんな仕えよ神様に
御礼申せよ神様に
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 こんな歌がどこからともなく晴れやかに聞こえて来ましたので、勘太郎は不思議に思って眼を開きますと、自分はいつの間にか見事な寝台《ねだい》の上に寝かされて、傍《かたわら》には大勢の美しい天女が寄ってたかって介抱しています。勘太郎は又夢を見ているなと思って眼を閉じようとしますと、不図自分の枕元にこの間夢で見たお姫様がニッコリ笑って立っているのに気が付きました。
 勘太郎は驚いてはね起きますと、どうでしょう。自分はいつの間にか髪から髯まで真白になって、神様のような白い大きな着物を着ています。それと一所に気持ちまでも神々しく清らかになって、今までの苦しかった事も悲しかった事もすっかり忘れてしまいました。
「そら、神様のお眼ざめだ」
 と大勢の天女たちは皆一時にひれ伏しました。
 勘太郎はそのまま神様の気持ちになってそこに止《とど》まりました。もう何も食べる事も心配する事もありません。只毎日天女たちの春の歌を聞き、面白い春の舞を見ているばかりでした。
 或る日、勘太郎は大勢の天女たちと一所に住居《すまい》を飛出しました。門口を出てからふり返って見ると、自分達の住居《すまい》はこの間山奥の岩の間に立てかけた樫の丸太の中程にある小さな小さな虫の穴でした。
 勘太郎は何より先に自分の昔の住家の処に来て見ました。見るとそこには昔の通りに自分の家があって、前にはこれも昔の通りに炭焼竈があります。オヤ、今度は誰が炭を焼いているのだろうと思って見ていますと、間もなく家の中から出て来たものは昔の勘太郎そっくりの男で、着物までも同じ事です。その男は神様の勘太郎の姿を見てこう云いました。
「ああ、蝶が沢山飛んで来たな。今年の正月、あの夢を本当にしてあの樫の木の虫を助けておりゃあ、今頃はあんな蝶になって飛びまわっているかも知れない。その代りおれの方は日干しになって死んでいるだろう。馬鹿馬鹿しい事だ。こっちの生命《いのち》と虫の生命《いのち》と換えられるもんか。どれ一つ炭を焼き初めようか。今度のは特別に虫の穴が多かったようだぞ」
 と云いながら炭焼竈に火を入れましたので、やがて煙が濛々《もうもう》と大空に向って湧き出しました。
 神様の勘太郎はまだ夢を見ているのか、それとも本当の事なのかさっぱり訳がわからなくなりました。



底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※底本の解題によれば、初出時の署名は「海若藍平《かいじゃくらんぺい》」です。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月31日公開
2006年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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