る。つまり作者はその名前から受ける感じで筋を運んで行くものらしい事が、ここに於てハッキリと自覚されるので、これは自分ばかりに限った事ではあるまいか、それとも他の作者にも共通した心理現象であろうか時々首をひねってみる事がある位である。
もう一つ面白いのは主役と端役《はやく》とで名前の附け方が違うことである。
端役の名前などはドウでもいいと思うのは大変な間違いである。主役の名前はどこでも主役らしく、端役の名前は必ず端役らしく附けて行かなければならぬ事は無論であるが、その主役に対する色どり、対照の軽重なぞを一歩誤ると、読者に余計な注意力を浪費させ、筋の混濁を惹起し、全篇の風姿を打毀すことがあるのだから油断がならない。
同時に後から主要な役割を受持つ端役の名前は、最初からそうした用意も籠めて名前を選んでおかなければならないのだから、端役の選名といっても中々軽々しく行かないのである。
おかしいのは赤ちゃんの名前を、やはり赤ちゃんらしく可愛いくしておかなければならないので、そいつが大きくなって悪党になったりする時に非常に困ることがある。
更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。
私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。
全く閉口するのは西洋人の名前である。外国人の名前の特徴なんか外国語の出来ない私にとっては全然わからないし、況《いわ》んやその名前によって、その髪毛や瞳の色を想像させるような芸当は一生涯出来ないものと諦らめている。
万止むを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生れ故郷の地名や、附近の地面の発音の特徴をもじって作るよりほかに方法を知らないので、こうして白状するさえ情ない気がする。
厳密に云うと日本でも、その地方地方で特有の名前がある。
[#天から3字下げ]蛙鳴くや一村姓を同じうす
という素人俳句が記憶に残っているが、そんな工合で或る地方の出来事を書くに、その地方に有り勝ちの名前ばかりを使って事件を運べば、非常によく実感が出る筈であるが、そこまでは行届かない
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング