イチイパアパアが幼稚園の先生ぐれえの事しか知らねえ江戸ッ子一流の世間見ずでゲス。箱根の向うへ行ったら日本語でせえ通じなくなるんですから、洋行なんて事あ考えてみた事も御座んせん。
 総督府の官舎を建てに台湾へ渡る時にも、乗っている船が陸地《おか》の見えない海の上を平気でドンドン走って行きますので、何だか妙な気持になっちゃいましてね。私《あっし》たちを引率している藤村てえ工学士の方に聞いたら笑われましたよ。
「地球は丸いものだから心配しなくてもいいよ。イクラ行ったって、おしまいにはキット日本へ帰り着くんだから」
「ヘエ、誰か見た者がおりますかえ」
「見なくたってわかっている。日本男児の癖に意気地《いくじ》が無《ね》えんだナお前は……。天草の女を御覧……世界が丸いか四角いか、わかりもしない娘ッ子の中《うち》から世界中を股にかけて色んな人種を手玉に取って、お金を捲上げちゃあ日本の両親の処へ送るんだ。大したもんだよソレア。世界中のどこの隅々に行っても天草女の居ない処は無いんだよ」
「ヘエッ……成る程ねえ。そんなもんですかねえ」
「まったくだよ。洋行するとわかる」
「ヘエ、そんなに天草女ってものは大勢居るんもんですかねえ」
「居るか居ないか知らないが、外国では炭坑でも、金山《かなやま》でも護謨《ゴム》林でも開けると器械より先に、まず日本の天草女が行くんだ。それからその尻を嗅《か》ぎ嗅ぎ毛唐の野郎がくっ付いて行って仕事を初める。町が出来る。鉄道がかかるという順序だ。善《い》い事でも悪い事でも何でも、皮切りをやるのはドッチミチ日本の女だってえから豪気《ごうぎ》なもんだよ。まったく思いがけない処でヒョイヒョイ天草女にぶつかるんだからね」
「ヘエ。そんな女は、おしまいにドウなるんでしょうか」
「それアキマリ切っている。その中《うち》に世界の丸いことがホントウにわかって来ると、そこで一人前の女になって日本へ帰って来て、チャンと普通《あたりまえ》の結婚をするんだ。又……それ位の女でないと天草では嬶《かかあ》に招《よ》び手が無い事になっているんだから仕方がない」
「嫁入道具に地球儀を持ってくようなもんですね」
「まあソンナもんだ。だから天草には、世界の丸いことがわからないと洋行出来ないナンテ意気地の無い女は一匹も居ないんだよ」
 あっし[#「あっし」に傍点]は余計な恥を掻いたんで赤くなっちゃいましたよ。それでもイクラか安心するにはしましたがね。
 ですから亜米利加《アメリカ》へ渡る時には相当、落付いておりましたよ。仲間の奴に……大工と左官とで、植木屋の六の親子も入れて十四五人ぐれえ居りましたっけが……そんな連中に基隆《キールン》で買った七十銭の地球儀を見せびらかして、日本の小さい処を講釈して聞かせたりして片付いておりましたがね。その中《うち》に毎日毎日アンマリ長いこと海の上ばっかりを走って行くのに気が付くと妙なもので、理窟は呑込んでいる癖に、何となく心配になって来ました。今でも初めて洋行する人は、よくソンナような頭のヘンテコになる病気にかかるんだそうで、熱ぐらいあったかも知れません。別に何ともないのに、何だかミンナが欺されて島流しにされるんじゃねえか。佐渡が島へ金坑《かね》掘りに遣られるんじゃねえか……なんて考えているとドウモ頂くものが美味《おい》しく御座んせん。毎日毎日そのライスカレーとシチウとコロッケに飽きちゃったのかも知れませんがね。
 その中《うち》に船の中で演芸会が初まりました。あっし[#「あっし」に傍点]がステテコを踊ることになったんで……船の中に派手な三桝《みます》模様の浴衣《ゆかた》と……その頃まだ団十郎《くだいめ》が生きておりました時分で……それから赤い褌木綿《ふんどしもめん》と、スリ鉦《がね》、太鼓、三味線《さみせん》なんぞがチャント揃ってたのには驚きましたよ。
 当日になると中甲板の五六百人ぐらい這入《はい》る広間《ホール》に舞台が出来て、そこへ一等の船客から吾々特別三等の連中まで一パイになって見物するんで、皮切りにヒョウキンな西洋人の船長が飛出して西洋手品を初める。ナカナカ鮮かなもんでしたが、これあ当り前でさあ。そのあとへ日本人が上ってヤッパリ西洋手品を使いましたがアンマリ冴《さ》えません。メード・イン・ジャパンが今でも幅の利かないのは手品ばっかりでしょう。その中《うち》にあっし[#「あっし」に傍点]のステテコの番が来たんで立上ろうとしているところへ今の植木屋の六の親父でゲス。その時はモウいい禿頭《はげあたま》の赤ッ鼻でしたっけが、あっし[#「あっし」に傍点]から世界の丸い話を聞《きい》てからというもの毎日毎日甲板に出て、船の周囲《まわり》をグルグルまわってゆく蓄音器のレコードみたいに平べったい海を見まわしながら首をひねっていた
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング