いましたよ。それでもイクラか安心するにはしましたがね。
 ですから亜米利加《アメリカ》へ渡る時には相当、落付いておりましたよ。仲間の奴に……大工と左官とで、植木屋の六の親子も入れて十四五人ぐれえ居りましたっけが……そんな連中に基隆《キールン》で買った七十銭の地球儀を見せびらかして、日本の小さい処を講釈して聞かせたりして片付いておりましたがね。その中《うち》に毎日毎日アンマリ長いこと海の上ばっかりを走って行くのに気が付くと妙なもので、理窟は呑込んでいる癖に、何となく心配になって来ました。今でも初めて洋行する人は、よくソンナような頭のヘンテコになる病気にかかるんだそうで、熱ぐらいあったかも知れません。別に何ともないのに、何だかミンナが欺されて島流しにされるんじゃねえか。佐渡が島へ金坑《かね》掘りに遣られるんじゃねえか……なんて考えているとドウモ頂くものが美味《おい》しく御座んせん。毎日毎日そのライスカレーとシチウとコロッケに飽きちゃったのかも知れませんがね。
 その中《うち》に船の中で演芸会が初まりました。あっし[#「あっし」に傍点]がステテコを踊ることになったんで……船の中に派手な三桝《みます》模様の浴衣《ゆかた》と……その頃まだ団十郎《くだいめ》が生きておりました時分で……それから赤い褌木綿《ふんどしもめん》と、スリ鉦《がね》、太鼓、三味線《さみせん》なんぞがチャント揃ってたのには驚きましたよ。
 当日になると中甲板の五六百人ぐらい這入《はい》る広間《ホール》に舞台が出来て、そこへ一等の船客から吾々特別三等の連中まで一パイになって見物するんで、皮切りにヒョウキンな西洋人の船長が飛出して西洋手品を初める。ナカナカ鮮かなもんでしたが、これあ当り前でさあ。そのあとへ日本人が上ってヤッパリ西洋手品を使いましたがアンマリ冴《さ》えません。メード・イン・ジャパンが今でも幅の利かないのは手品ばっかりでしょう。その中《うち》にあっし[#「あっし」に傍点]のステテコの番が来たんで立上ろうとしているところへ今の植木屋の六の親父でゲス。その時はモウいい禿頭《はげあたま》の赤ッ鼻でしたっけが、あっし[#「あっし」に傍点]から世界の丸い話を聞《きい》てからというもの毎日毎日甲板に出て、船の周囲《まわり》をグルグルまわってゆく蓄音器のレコードみたいに平べったい海を見まわしながら首をひねっていた
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