目と右手だけ残っている奴でも戦線に並べなくちゃならん。ええですか。ことに今度のヴェルダン総攻撃は……まだいつ始まるかハッキリしないようですが……西部戦線、最後の荒療治ですからなあ。死んだ奴は魂だけでも塹壕に逐《お》い返す覚悟でいないと間に合いませんぞ……ええですか……ハハハ……」
その時も私は妙に気持が重苦しくなって、胴震いが出て、吐気を催したものであったが……。
そうしてイヨイヨ総攻撃が始まった。
昨日までクローム色に晴れ渡っていた西の方の地平線が、一面に紅茶色の土煙に蔽われていることが、夜の明けるに連《つ》れてわかって来た。その下からふんだんに匐《は》い上って来るブルンブルンブルンブルンという重苦しい、根強い、羽ばたきじみた地響を聞いていると、地球全体が一個の、巨大な甲虫に変化しているような感じがした。それに連れて西の空の紅茶色の雲が、見る見る中《うち》に分厚く、高層に、濃厚になって行くのであった。
その紅茶色の雲の中から併列して迸《ほとばし》る仏軍の砲火の光りが太陽色にパッパッパッと飜って見える。空気と大地とが競争でその震動を、われわれの靴の底革の下へ、あとからあとから膨れ上らせて来る。それと同時に伝わって来る目にも見えず、耳にも聞えない無限の大霊の戦慄は、サーカスじみた驚嘆すべき低空飛行で、吾々の天幕を震撼して行く味方の飛行機すら打消し得ない。
その地殻のドン底から鬱積しては盛り上り、絶えては重なり合って来る轟音の層が作るリズムの継続は、ちょうど日本の東京のお祭りに奏せられる、あの悲しい、重々しい BAKA−BAYASHI のリズムに似ている……。
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Ten《テン》 Teretsuku《テレツク》 Teretsukutsu《テレツクツ》 Don《ドン》 Don《ドン》……
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……という風に……あの BAKA−BAYASHI の何億万倍か重々しくて物悲しい、宇宙一パイになる大きさの旋律が想像出来るであろうか……。
私は日本の東京に来て、はじめてあの BAKA−BAYASHI のリズムを聞いた時に、殆んど同時に、大勢の人ゴミ中でヴェルダン戦線の全神経の動揺を想起して戦慄した。あの時の通りの吐気が腸《はらわた》のドン底から湧き起って来るのをジッと我慢した。あの時から私の脊髄骨の空洞に沁み込んで消え残っている戦慄……血と、肉と、骨と、魂とを同時に粉砕し、嘲弄するところの鉄と、火と、コンクリートの BAKA−BAYASHI……地上最大の恐怖を描きあらわすところの最高度のノンセンスのオルケストラ……。
そのオルケストラの中から後送されて来る演奏済みの楽譜……死傷者の夥しさ。まだ日の暮れない中《うち》に半分、もしくは零になりかけている霊魂の呻吟《しんぎん》が、私達の居る白樺の林の中から溢れ出して、私を無限の強迫観念の中に引包んでしまった。
中央の大キャムプと、その周囲を取巻く小キャムプは無論超満員で、溢れ出したものは遅く上って来た半|欠《か》けの月と零下二十度近い、霜の氷り付いた黒土原の上に、眼も遥かに投出されたままになっている。私も最初の中《うち》は数名の部下を指揮して、それぞれの手当に熱中していたが、終《しま》いには熱中のあまり助手と離れ離れになって、各自《めいめい》に何百人かの患者を受持って独断専行で片付けなければならない状態に陥った。否……ことによると私が手当てをした人数は何千人に上るかも知れない。あとからあとから無限の感じの中へ忘却して行ったのだから……。
戦後、我独逸軍の衛生隊の完備していたことは方々で耳にして来たものであるが、そんな話を聞く度毎《たびごと》に、私は身体が縮まる思いがした。全くこの時は非道《ひど》かった。手を消毒する薬液は愚か、血を洗う水さえ取りに行く隙《ひま》が無かったので、私の両手の指は真黒く乾固《ひかた》まった血の手袋のために、折曲りが利かなくなった。一つには非常な寒さのせいであったろう。兵士の横腹から出る生温《なまあたたか》い血が手の甲にドクドクと流れかかると、その傷口から臓腑の中へ、グッと両手を突込みたい衝動に馳られて仕様がない位であった。
初めて見る負傷兵もモノスゴかった。
片手や片足の無い者はチットモ珍らしくなかった。臓腑を横腹にブラ下げたまま発狂してゲラゲラ笑っている砲兵。右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》から左の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]へ射抜かれて視神経を打切られたらしい、両眼をカッと見開いたまま生きていて「カアチャンカアチャン」と赤ん坊みたいな声で連呼している鬚だらけの歩兵曹長。下顎を削り飛ばされたまま眼をギョロギョロさして涙を流している輜重兵《しちょうへい》なぞ、われわれ
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