ては又グウウ――ンと以前《もと》の闇黒の底に消え込んで行く凄愴《せいそう》とも、壮烈とも形容の出来ない光景を振り返って、身に沁み渡る寒気と一緒に戦慄し、茫然自失しているばかりであった。天幕の中に帰って制服のまま底冷えのする藁《わら》と毛布の中に埋まってからも、覚悟の前とはいいながら、自分は何という物凄い処に来たものであろう。いったい自分は何という処に、何しに来ているのであろう……といったような事をマンジリともせずに考えながら、あっちへ寝返り、こっちへ寝返りしているばかりであった。
しかし夜が明けると間もなく、程近いキャムプの中から起出して挨拶に来た私の部下の話で一切の合点が行ったように思った。
私の部下というのは、私とは正反対に風采の頗《すこ》ぶる立派な、カイゼル髭《ひげ》をピンと跳ね上げた好男子の看護長で、その話ぶりは如何にも知ったか振りらしい気取った軍隊口調であった。
――我が独逸軍は二月に入ると間もなくヴェルダンに向って最後の総攻撃を開始するらしい。目下新募集の軍隊と、新鋳の砲弾とを、続々と前線に輸送中である。そうして貴官……オルクス・クラデル中尉殿は、その来《きた》るべき総攻撃の際に於ける死傷者の始末を手伝うために、このキャムプに配属された、最終の一人に相違ないと思われる。
――我が独逸軍の一切の輸送は必ず夜中に限られているようである。仏軍は、そうした我軍の輸送を妨げるために、昨夜も見た通り毎晩日が暮れかかると間もなくから、不規則な間隔をおいて、強力な光弾を打上げては、大空の暗黒の中に包まれた繋留気球に仕掛けた写真機で、独逸軍全線の後方を残る隈《くま》なく撮影しているらしい。僅かな行李《こうり》の移動でも直ぐに発見されて、その方向に集中弾が飛んで来るので、輸送がナカナカ手間取っている。現に左手の二三|基米《キロ》の地平線上に、纔《わず》かに起伏している村落の廃墟には、数日前から二個大隊の工兵が、新しい大行李と一緒に停滞したまま動き得ないでいる状態である。
――だからあの光弾の打上げられている方向がヴェルダンの要塞の位置で、愈々《いよいよ》攻撃が始まったら、ここいらまでも砲弾が飛んで来ないとは限らない。
――新しく募集した兵卒は戦争に慣れないから、死傷者が驚くべき数に達することは、今から十分に予想されている。云々《うんぬん》。
コンナ話を聞かされている中《うち》に私は何となく横腹がブルブルと震え出して来た。否々決して寒さのためではなかった。五百|米《メートル》ばかり隔たった中央の大天幕の中に居る衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐の処へ挨拶に行って巨大な原油ストーブの傍に立ちながらもこのブルブルが続いていた。のみならずその司令官の六尺豊かの巨躯と、鬚《ひげ》だらけの獰猛《どうもう》な赤面《あかづら》を仰ぎながら、厳格、森儼を極めた新任の訓示を聞いている中《うち》にも、そのブルブルが一層烈しくなって、胸がムカムカして吐きそうな気持ちになって来たのには頗《すこぶ》る閉口したものであったが、これは多分私が、戦地特有の神経病に早くも囚われかけていたせいであったろう。実際ソンナ一時的の神経障害が在り得ることを前以て知っていなければ、私はあの時にマラリヤと虎列剌《コレラ》が一所に来たと思って狼狽《ろうばい》したかも知れないのであった。
しかしイザとなると私は、やはり神経障害的ではあったが、案外な勇気を振い起すことが出来た。零下十何度の殺人的寒気の中に汗がニジム程の元気さで腕一パイに立働く事が出来た。
その二月の何日であったか忘れたが、たしか総攻撃の始まる前日のことであった。私たちの居るキャムプまで巡視に来た衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐は、例の鬚《ひげ》だらけの獰猛な赤面を妙な恰好に笑い歪《ゆが》めながらコンナ予告をした。
「……クラデル博士。ちょっとこっちへ来て下さい。僕がコンナ話をした事は秘密にしておいてもらいたいですがね……ほかでもないですがね。大変に失礼な事を云うようじゃが、伯林《ベルリン》に居られる時のような巧妙親切を極めた、君一流の手腕は、戦場では不必要と考えてもらいたい事です。こんな事を云うたら非常な不愉快を感じられるかも知れないが、それが戦場の慣わしと思って枉《ま》げて承服して頂きたいものです。その理由は遠からずわかるじゃろうが、イヨイヨとなったら、ほかの処の負傷はともかくも両脚の残っとる奴は構わんからドシドシ前線に送り返してもらわなくちゃ駄目ですなあ。戦線特有の神経障害で腰の抜けた奴は、手鍬《てくわ》か何かで容赦なく尻ベタをぶん殴ってみるんですなあ。それでも立たん奴は暫く氷った土の中へ放っておくことです。それ以上の念を入れる隙《ひま》があったら、他の負傷者を手当てする事です。時と場合に依っては片
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