ったが、やがて極めて小さい、虫のような声で私に問うた。
「軍医大佐殿とはモウ余程離れておりますか」
「……ソウ……百|米突《メートル》ばかり離れております。何か用事ですか」
 候補生は答えないまま空虚な瞳を星空へ向けた。血の気の無い白い唇をポカンと開け、暫く何か考えているらしかったが、やがて上衣の内ポケットから小さな封筒大の油紙|包《づつみ》を取出して、手探りで私の手に渡して、シッカリと握らせた。
 しかし私は受取らなかった。彼の手と油紙包みを一所に握りながら問うた。
「これを……私に呉れるのですか」
「……イイエ……」
 と青年は頭を強く振った。なおも湧出す新しい涙を、汚れた脱脂綿で押えた。
「お願いするのです。この包を私の故郷の妻に渡して下さい」
「貴方《あなた》の……奥さんに……」
「……ハイ。妻の所書《ところがき》も、貴方の旅費も、この中に入っております」
「中味の品物は何ですか」
「僕たちの財産を入れた金庫の鍵です」
「……金庫の鍵……」
「そうです。その仔細《わけ》をお話ししますから……ドウゾ……ドウゾ……聞いて下さい」
 と云う中《うち》に青年は、両手を脱脂綿ごと顔に押し当てて、乞食のように連続的にペコペコ……ペコペコと頭を下げた。私はすこし持て余し気味になって来た。
「とにかく……話して御覧なさい」
「……あ……有難う御座います……」
「サアサア……泣かないで……」
「すみません。済みません。こうなんです」
「……ハハア……」
「……僕の先祖はザクセン王国の旧家です。僕の家にはザクセン王以上の富を今でも保有しております。父は僕と同姓同名でミュンヘン大学の教授をつとめておりました。僕はその一人息子でポーエル・ハインリッヒという者です。今の母親は継母で、父の後妻なんですが、僕と十歳ぐらいしか年齢《とし》が違いません。その父が昨年の夏、突然に卒中で亡くなりましてからは、継母は家付きの弁護士をミュンヘンの自宅に出入りさせておりますが、この弁護士がドウモ面白くない奴らしいのです。いいですか……」
「成る程。よくわかります」
「僕が継母に説伏《ときふ》せられて三度の御飯よりも好きな音楽をやめて、軍隊に入る約束をさせられたのもドウヤラその弁護士の策謀《さしがね》らしいのです。つまりその弁護士は僕と、僕の新婚の妻との間に子供が出来ない中《うち》に、継母《はは》と共謀
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