っ立っている私タッタ一人しか居ない。……この女を殺すのは私の使命である。
……否《いな》。否《いな》。この女は私と初対面の時から、こうなるべく運命づけられていたのだ。……その証拠にこの女はこの通り、絶対に安全な犯罪を私に遂《と》げさせるべく、自ら進んでここに来ているではないか……そうしてこの通りジッと眼を閉じて、私の手にかかるべく絶好の機会を作りつつ、待っているではないか。
……私は彼女の死体をここに寝かして、電燈を消して、いつもの時間通りに下宿に帰ればいいのだ。何も知らずに眠ってしまえばいいのだ。そうして明日《あす》の晩から又、以前《もと》の通りの散歩を繰返せばいいのだ。
……運命……そうだ……運命に違い無い……これが彼女の……。
こんな風に考えまわしてくるうちに私は耳の中がシイ――ンとなるほど冷静になって来た。そうしてその冷静な脳髄で、一切の成行きを電光のように考えつくすと、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく彼女の枕許にひざまずいて、四五日前、冗談にやってみた通りに、手袋のままの両手を、彼女のぬくぬくした咽喉《のど》首へかけながら、少しばかり押えつけてみた。むろんまだ冗談のつもりで……。
彼女はその時に、長いまつげをウッスリと動かした。それから大きな眼を一しきりパチパチさして、自分の首をつかんでいる二つの黒い手袋と、中折帽子を冠ったままの私の顔を見比べた。それから私の手の下で、小さな咽喉仏《のどぼとけ》を二三度グルグルと回《ま》わして、唾液《つばき》をのみ込むと、頬を真赤にしてニコニコ笑いながら、いかにも楽しそうに眼をつむった。
「……殺しても……いいのよ」
二
私が何故《なにゆえ》に、彼女を殺したか。
その彼女を殺した手段と、その手段を行った機会とが、如何《いか》に完全無欠な、見事なものであったか。
そうして、そういう私はソモソモどこの何者か。
そんな事は三週間ばかり前の東京の各新聞を見てもらえば残らずわかる。多分特号活字で、大々的に掲載してあるであろう「女優殺し」の記事の中に在る「私の告白」を読んでもらえば沢山である。そうしてその記事によって……かくいう私が、某新聞社の社会部記者で、警察方面の事情に精通している青年であった。同時に極端な唯物主義的なニヒリスト式の性格で、良心なぞというものは旧式の道徳観から生まれた、遺伝的感受性の一部分ぐらいにしか考えない種類の男であった……という事実をハッキリと認識してもらえば、それで結構である。
ところでその私が、現在、ここで係官の許可を得て、執筆しているのは、そんな新聞記事の範囲に属する告白ではない。又は警察の報告書や、予審調書に記入さるべき性質の告白でもない。すなわち、その新聞記事や、予審調書にあらわれているような告白を、私がナゼしたかという告白である。……事件の真相のモウ一つうらに潜む、極めて不可思議な恐ろしい真相の告白である。……すべての犯罪事件を客観的に考察し、批判する事に狎《な》れた、頗《すこぶ》る鋭利な、冷静な頭の持主でも意外に思うであろう……[#ここから横組み]光明の中心×暗黒の核心=X[#ここで横組み終わり]……とも形容すべき告白である。
冗《くど》く云うようであるが、私はモウ一度念を押しておきたい。
あの新聞記事を徹底的に精読してくれた、極めて少数の人々……もしくは直感の鋭い、或る種のアタマの持ち主は直ぐに気付いたであろう。私はこの事件に就《つ》いては、どこまでも知らぬ存ぜぬの一点張りで、押通し得る自信を持っていた。如何なる名探偵や名検事が出て来ても、一分一厘の狂い無しに「証拠不充分」のところまで押し付け得る、絶対無限の確信を持っていた……という私の主張を遺憾《いかん》なく首肯《しゅこう》してくれるであろう。……にも拘《かか》わらずその私が、何故《なにゆえ》に自分から進んで自分の罪状をブチマケてしまったか……モウ一歩突込んで云うと、良心なるものの存在価値を絶対に否認していた私……同時に自分の手にかけた彼女に対しては、一点の同情すら残していなかった筈の私が……何故にコンナにも他愛なく泥を吐いてしまったか……ホンの当てズッポーで投げかけた刑事の手縄に、何故にこっちから進んで引っかかって行ったか……。
……こうした疑問は、あの記事を本当の意味で精読してくれた何人かの頭に必然的に浮かんだ事と思う。「何故に私が白状したか」という大きな疑問に、一直線にぶつかった筈と考えられる。
ところが不思議な事に、この事件を担当した警察官や裁判所の連中は、コンナ事をテンカラ問題にしていないらしい。現在私を未決監《みけつ》にブチ込んでいながら、この点に関しては一人も疑問を起したものが居ないらしい。それはこの点について、私に訊問《じんもん》した事が一度も無い……という事実が、何よりも雄弁に証拠立てている。
しかし考えてみるとこれは無理もない話である。彼等は私の自白にスッカリ満足してしまって、ソレ以上の事に気が付かないでいるのだから……。彼等は要するに犯人を捕える無智な器械に過ぎないのだから……そうしてそんな器械となって月給を取るべく彼等は余りに忙し過ぎるのだから……。
だから私はこの一文を彼等の参考に供しようなぞ思って書くのではない。あの記事を精読してくれて、私の自白心理に就いて疑問を起してくれた少数の頭のいい読者と、わざわざ私のために係官の許可を得て、この紙と鉛筆とを差し入れてくれた官選の弁護士君へ、ホンの置土産《おきみやげ》のつもりで書いているのだ。
そうして私の「完全な犯罪」を清算してしまいたい意味で……。
私は「彼女の死」以外に、何等の犯跡を残していない空屋を出ると、零度以下に冷え切った深夜のコンクリートの上を、悠々《ゆうゆう》と下宿の方へ歩いて帰った。それは、いつも新聞社からの帰りがけに、散歩をしている通りの足取であったが、あんまり寒いせいか、途中には犬コロ一匹居なかった。ただ街路樹の処々《しょしょ》に残った枯葉が、クローム色の星空の下で、あるか無いかの風にヒラリヒラリと動いているばかりであった。
すべてが私の予想通りに完全無欠で、且《か》つ理想的であった。「完全なる犯罪」を実行し得る無上の一|刹那《せつな》を、私のために作り出してくれた天地万象が、どこまでも私のアタマのヨサを保証すべく、私の註文通りに動いているかのようであった。こころみに下宿の門口《かどぐち》に立ち止まって、軒燈《けんとう》の光りで腕時計を照してみると、いつも帰って来る時間と一分も違っていなかった。
……彼女はモウ、これで完全に過去の存在として私の記憶の世界から流れ去ってしまったのだ。そうして私はこれから後《のち》、当分の間、毎晩その通りの散歩を繰返せばいいのだ。あの空家で彼女と媾曳《あいびき》することだけを抜きにして……。
そう思い思い私は下宿の表口の呼鈴《よびりん》を押して、閂《かんぬき》を外《はず》してくれた寝ぼけ顔の女中に挨拶をした。いつもの通りに「ありがとう……お休み」……と……。その時に、帳場の上にかかった柱時計が、カッタルそうに二時を打った。
その時計の音を耳にしながら私は、神経の端の端までも整然として靴の紐を解く事が出来た。それから、いつもの足どりで、うつむき勝ちに階段を昇ったが、それは吾《わ》れながら感心するくらい平気な……ねむたそうな跫音《あしおと》となって、深夜の階上と階下に響いた。
……もう大丈夫だ。何一つ手ぬかりは無い。あとは階段の上の取っ付きの自分の室《へや》に這入《はい》って、いつもの通りにバットを一本吹かしてから蒲団《ふとん》を引っかぶって睡ればいいのだ。……何もかも忘れて……。
そんな事を考え考え幅広い階段を半分ほど昇って、そこから直角に右へ折れ曲る処に在る、一間四方ばかりの板張りの上まで来ると、そこで平生《いつも》の習慣が出たのであろう、何の気もなく顔を上げたが……私は思わずハッとした。モウすこしで声を立てるところであったかも知れなかった。
……「私」が「私」と向い合って突立っているのであった……板張りの正面の壁に嵌《は》め込まれた等身大の鏡の中に、階段の向うから上って来たに違い無い私が、頭の上の黄色い十|燭《しょく》の電燈に照らされながら立ち止まって私をジッと凝視しているのであった。……蒼白い……いかにも平気らしい……それでいて、どことなく犯人らしい冴え返った顔色をして……底の底まで緊張した、空虚な瞳《め》を据えて……。
「この鏡の事は全く予想していなかった」……と気付くと同時に私は、私の全神経が思いがけなくクラクラとなるのを感じた。私の完全な犯行をタッタ今まで保証して、支持して来てくれた一切のものが、私の背後で突然ガランガランガランガランと崩壊《ほうかい》して行く音を聞いたように思った。……同時に、逃げるように横の階段を飛び上って、廊下の取っ付きの自分の室《へや》に転がり込んで行く、自分自身を感じたように思った……が、間もなく、その次の瞬間には、もとの通りに固くなって、板張りの真中に棒立ちになったまま鏡と向い合っている自分自身を発見した。……自分自身に、自分自身を見透《みす》かされたような、狼狽《ろうばい》した気持ちのまま……。
するとその時に、鏡の中の私が、その黒い、鋭い眼つきでもって、私にハッキリとこう命令した。
「お前はソンナに凝然《じっ》と突立っていてはいけないのだぞ。今夜に限ってこの鏡の前で、そんな風に特別な素振をするのは、非常な危険に身を晒《さら》す事になるのだぞ。一秒|躊躇《ちゅうちょ》すれば一秒だけ余計に「自分が犯人」である事を自白し続ける事になるのだぞ。
……しかし、そんなに神経を動揺さしたまま俺の前を立ち去るのは尚更《なおさら》ケンノンだ。お前は今すぐに、そのお前の全神経を、いつもの通りの冷静さに立ち帰らせなければならぬ。そうして平生《いつも》の通りの平気な足取りで、お前の右手の階段を昇って、自分の室《へや》に帰らなければならぬ。……いいか……まだ動いてはいけないぞ……お前の神経がまだ震えている……まだまだ……まだまだ……」
こんな風に隙間もなく、次から次に命令する相手の鋭い眼付きを、一生懸命に正視しているうちに私は、私の神経がスーッと消え失せて行くように感じた。それにつれて私の全身が石像のように硬直したまま、左の方へグラグラと傾き倒れて行くのを見た……ように思いながら慌てて両脚を踏み締めて、唇を血の出るほど噛み締めながら、鏡の中の自分の顔を、なおも一心に睨み付けていると、そのうちにいつの間にか又スーッと吾に返る事が出来た。やっと右手を動かして、ポケットからハンカチを取り出して、顔一面に流るる生汗《なまあせ》を拭うことが出来た。そうすると又、それにつれて私の神経がグングンと弛《ゆる》んで来て、今度は平生よりもズット平気な……寧《むし》ろガッカリしてしまって胸が悪くなるような、ダレ切った気持になって来た。
私は変に可笑《おか》しくなって来た。タッタ今まで妙に狼狽《ろうばい》していた自分の姿が、この上もなく滑稽《こっけい》なものに思えて来た。そうして「アハアハアハ」と大声で笑い出してみたいような……「笑ったっていいじゃないか」と怒鳴ってみたいようなフザケた気持になった。
私は鏡の中の自分を軽蔑してやりたくなった……「何だ貴様は」とツバを吐きかけてやりたい衝動で一パイになって来た。そこでモウ一度ポケットからハンカチを出して顔を拭い拭い、そこいらをソット見まわしてから、鏡の中を振り返ると、鏡の中の私も亦《また》、瀬戸物のように、血の気《け》の無い顔をして、私の方をオズオズと見返した……が……やがて突然に、思い出したように、白い歯を露《あら》わして、ひややかにアザミ笑った。
私は思わず眼を伏せた。……ゴックリと唾液《つば》を呑んだ。
それから一週間ばかり後《のち》の或る朝であった。私はいつもの通り朝寝をして、モウ起きようか……どうしようかと思い思い、昨夜《ゆうべ》新聞社
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