を無くした悲しみの余りに首を縊《くく》って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早《もはや》、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終《しま》いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶《めと》る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦《おのの》き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手《いたで》を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲《なげう》って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐《お》い続けているところであった。
 その甘美な夢が、今、無残《むざん》にもタタキ破られてしまったのであった。
 時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微《かす》かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
 見るも浅ましい孕《はら》み女。物を得《え》言《い》わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々《いないな》。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
 ……それがさながらに悪魔の智慧《ちえ》で計劃された復讐のように残酷な、手酷《てきび》しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶《おぼえ》式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える……。
 ……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が更に更に神秘数層倍されて来るのであった。
 彼は思わず今一度ゾッとして身体を縮めた。パッチリと眼を見開いて、静かに振返ってみると花嫁の初枝は、夜具の襟に顔を埋めてスヤスヤと眠っているようである。
 彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつすこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音を窃《ぬす》み窃み渡殿《わたりどの》伝いに母屋《おもや》の様子を窺った。
 家中が森閑《しんかん》と寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えてしまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言《ねごと》とも歌とも附かぬグウダラな呆《ぼ》け声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。
 薬局の三方|硝子《ガラス》窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏《はたんきょう》の花が、鉛色の影を大地一面に漂《ただよ》わしていた。
 中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚《みと》れていた。そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂《いわゆる》成功者、すなわち立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を蹂躙《じゅうりん》し、踏殺《ふみころ》して来たかを聯想し、想起し続けていた。
 ……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間にならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、淋《さび》しい廃物同然の唖女の一生と釣換《つりか》えにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。咎《とが》められるところもない。ただ他人に見咎《みとが》められさえしなければ……疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。
 そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような寒さを感じ初めたので、彼はハッとして吾《われ》に帰った。
 頭のシンは睡《ね》むくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っているような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出《ひきだし》から小さなカプセルを一個取出した。それから突当
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