この時にも、わざと傍道《わきみち》へ外れて、彼の家の背後の山蔭に盛上った鎮守の森の中へフラフラと歩み入った。そのヒイヤリとした日蔭の木《こ》の間《ま》を横切って行く、白い蝶の姿を見ても、又は、はるか向うの鉄道線路を匐《は》い登って行く三毛猫の、しなやかな身体附《からだつき》を見ただけでも、云い知れぬ神秘的な悩みに全身を疼《うず》かせつつ、鎮守の森の行詰まりの細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。
 忽《たちま》ち、たまらない草イキレと、木蔭の青葉に蒸《む》れ返る太陽の芳香《におい》が、おそろしい女の体臭のように彼を引包《ひきつつ》んだ。行けば行くほどその青臭い、物狂おしい太陽の香気が高まって来た。彼は窒息しそうになった。
 むろん医学生である彼は、その息苦しくなって来る官能の悩みが、どこから生まれて来るかを知っていた。同時にその悩ましさから解放され得る或る…………誘惑を、たまらなく気附いているのであった。だから彼は、現在、蒸れ返るような青葉の芳香の中で、その誘惑を最高潮に感じたトタンに、自分のフックリと白い手の甲に……附いた。汗じみた、甘鹹《あまから》い手の甲の皮膚をシッカリと…………て気を散らそうと試みた……が……しかしその手の甲の肉から湧き起る痛みすらも、一種のタマラない……………のカクテルとなって彼の全身に渦巻き伝わり、狂いめぐるのであった。

 彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締《かみし》めて、雑木藪《ぞうきやぶ》の中を盲滅法《めくらめっぽう》に驀進《ばくしん》し初めた。あたかも背後から追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、袷衣《あわせぎぬ》一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、露《あら》わな向う脛《ずね》から内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前を遮《さえぎ》る雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロとよろめいて立佇《たちど》まった。
 彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、露《あら》わになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くから疎《まばら》に聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中《やまじゅう》の静けさがヒシヒシと身に泌《し》み透るのを感じていた。
 突然、鳥とも獣《けだもの》とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。
「ケケケケケケケケケ……」
 彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に佇《たたず》んでいたのであった。
 そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷|趾《あと》で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え覆《かぶ》さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。
 その倉庫の二階の櫺子《れんじ》窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々《こうごう》しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった夥《おびただ》しい髪毛が見えた。それが窓から挿《さ》し込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。
「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」
 その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩《くら》むほどの魅惑……白昼の妖精……。
 彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。
 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶《とだ》え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘《はず》ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」

 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。

 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛《ゆくえ》不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女
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