午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々|業腹《ごうはら》ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。
 倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、
「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」
 という返事であった。
 私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。
 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足《フォクストロット》、靴拭《チャルストン》、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込みだ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが、相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をかけたくなるような魅惑を感じた。
 どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思った
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