「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
 と即答をしましたが、その刹那《せつな》に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞《くそ》でも啖《く》らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面《うわべ》にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。
 相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付《めつき》で十数秒間、凝視《ぎょうし》しておりましたが、やがてまた胴衣《チョッキ》の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭《うやうや》しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
 白い封筒の中味はありふれた便箋《びんせん》でしたが、文字は擬《まが》いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。

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