婆《でしゃば》った真似をするんじゃないよ」
 と戒《いまし》めてから私は平常の通り診察にかかったが、彼女は別にお見舞に行こうとする私を強《し》いて止めようとする気色も見せなかった。
 しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。
「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」
「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」
「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」
「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」
「ありがとうございます。では行って参ります」
「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」
 彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の遣《や》る瀬《せ》ない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。

 いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽《ゆうひ》の中を紅葉坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序に、白鷹夫人のきょうの出来事を比較的明るい気持で喋舌《しゃべ》っていると、そのうちに黙って給仕をしていた妻の松子がフイッと大変な事を言い出した。
「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」
「……フウン……ドウ変なんだい」
「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」
「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」
「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀《たくら》んでいるような気がするの」
「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前《まい》の趣味だね。探偵小説、探偵小説……」
 ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀《マージャン》の聴牌《てんぱい》を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇《ひま》に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが、しかし、そうした妻の頭の作用《はたらき》に就いて私が内心|些《すく》なからず鬼胎《おそれ》を抱《いだ》いていた事は事実であった。
 だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬《やきもち》と混同するような気は毛頭起らなかった。また彼女の変痴気趣味が出たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリと感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討してみる気になった。
「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」
「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」
「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」
「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」
「オホホ。もっとすごい感じよ」
「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」
「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」
「名探偵だね。どうして会えるんだい」
「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」
「やはり丸の内倶楽部さ」
「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」
「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」

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