な事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの花簪《はなかんざし》を十字架にかけました者が、わたくしに相違御座いません事は、その理由と一緒に、警官の方に白状致して置きました。なお警官の方は、お父様の事について思いがけない事をいろいろとお尋ねになりましたが、何も存じませんから、お答えせずに置きました。警官の方は自殺されました甘川歌枝さんの投書によって、お父様の裏面の御生活を詳しく御存じの様子ですから、御参考のために申し添えて置きます。
 しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお癒《なお》りになるまで安静に御介抱申し上げたいばっかりに家出致したので御座いますから、この上ともにわたくし共の行方を決して御探し下さいませんように……。なお、わたくしが、かような奇怪な行動をとりました理由も、申すまでもなく決して御探《おさぐ》りになりませんように、幾重にもお願い致します。その方がお父様にも私にも幸福と思いますから……。
 何卒《どうぞ》お身体《からだ》をお大切に……。
[#地から2字上げ]アイ子
 父上様
[#ここで字下げ終わり]
 因《ちなみ》に右、殿宮アイ子は県立高女在学中、同校の明星と呼ばれた美人で、成績抜群の名誉を担《にな》っていた才媛である。

     ―――――――――――――――

  森栖校長先生
[#地から2字上げ]火星の女 より

 私は嬉しくて嬉しくて仕様がありません。こうして校長先生に復讐する事が出来るのですから……。
 私がホントウに火星の女でしたら、それこそ天の上まで飛び上って喜ぶかも知れません。
 私の死体は多分、誰ともわからない真黒焦になって発見されるでしょう。そうして新聞に大騒ぎをして書かれるでしょう。
 私は、私のお友達に頼みました。
「私がこの手紙を書き始めました二十四日の午後からキッチリ一週間目の三十一日の夕方に、この手紙を速達で校長先生の処へ出して頂戴ね」
 ……と……そうして校長先生が、私の黒焦屍体を御覧になっても……そうしてこの手紙をお読みになっても反省なさらずに、知らん顔をなすったり、平気で誤魔化《ごまか》して行こうとしたりなさる御模様があったら、念のために書いて置きましたほかの一通を警察署へ出して頂きます。そうして、それでもこの事件の真相が世間へ発表されず、校長先生と棒組んで、浅ましい恥知らずな事をしておられる方々が、校長先生と御一緒にこの事件を暗から暗に葬ろうとしてお出でになる御模様がわかりましたならば、そんな関係と新聞記事を封じ込んだ、これと同じモウ一通のコピーを抜からないようにある方面へ廻わして、ズット遅れてから発表して下さるようにお願いして在るのです。私の黒焦屍体に絡《まつ》わる校長先生の責任をどこまでも明らかにする手順がチャント付いているのです。その私のお友達の方は頭のいい、決心の強いお方ですから、この最後の一通を押えられるようなヘマな事は決してなさらないでしょう。
 私は、私の一生涯を、無駄に黒焦にしたくは御座いません。
 私は、校長先生と御一緒に、腐敗《ふはい》、堕落しております現代の自分勝手な、利己主義一点張の男性の方々に、一つの頓服薬《とんぷくやく》として「火星の女の黒焼」を一服ずつ差し上げたいのです。黒焼流行の折柄ですから万更《まんざら》、利《き》き目のない事は御座いますまい。
 ――火星の女の黒焼――
 なんと珍しいお薬では御座いませんか。もしかすると埃及《エジプト》の木乃伊《ミイラ》の一片よりも高価なものでは御座いますまいか。
 召上ったお心持は如何で御座いますか。
 定めし清々なすって、お心の隅から隅までスウッとなすった事で御座いましょう。
 ホホホホホ。ホホホホホホホ……。
 その私……黒焦になった火星の女の復讐を、こうして手伝って下さる私の親友が、どなたかと言うような事は、お考えにならない方がいいでしょう。万一それが御判明《おわかり》になっても、ただビックリなさるばかりで、手の出しようがないので、お困りになるだけの事でしょう。
 その方は、私のような通りがかりの出来事で先生を恨んでお出でになるのでは御座いません。その方は、肺病でお寝みになっておられる実のお母様と、校長先生に誘惑されて無情な放蕩《ほうとう》ばかりしてお出でになる義理のお父様に仕えながら、そんな事情を世間へ洩《も》らさないために、女中も置かないで、黙って楽しそうに立ち働いてお出でになる、世にも珍しい親孝行なお方です。そうして、その方のお母様をソンナ運命に陥れた悪魔を、いつも心探しに探しておられた方です。ですからその方は、私からその悪魔の名前をお聞きになると直ぐに、お母様の讐敵《かたき》を取りたい
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