しさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。
ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で狃《な》れ狃れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況《いわ》んや久しく物も言った事のない人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと言いかけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂《いわゆる》フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないが、その辺の消息は明らかでない。とにも角にもこうして二、三分間|睨《にら》み合ったまま立ち辣《すく》んでいるうちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。
「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」
こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据《みす》えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。
こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間《ホール》の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。
私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴《したた》った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。
「ところで……奥さんの御病気は如何《いかが》です」
「……エ……」
この時の白鷹氏の驚愕《きょうがく》の表情を見た瞬間に、私は最早《もう》、万事休すと思った。
「妻《かない》が……久美子が……どうかしたんですか」
「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
「ええッ。いつ頃ですか」
「……今朝の……九時頃……」
ドット言う哄笑《こうしょう》が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱《かか》えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。
私は極度の狼狽《ろうばい》に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中
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