た私は、
「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」
 と思わず口を辷《すべ》らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったようであった。
 もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、
「タッタ二十円しか遣らないのになあ」
 とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。
 ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が天衣無縫《てんいむほう》で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事《こうず》魔《ま》多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。
 彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。

 お恥かしい話ではあるが開業|※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》の好景気に少々浮かされ気味の私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者《ひょうきんもの》に立ち帰っていた。つまらない駄洒落《だじゃれ》や、軽口や、冗談を連発して患者の憂鬱を吹き飛ばしたり、
「オイオイ。小さい解剖刀《メス》を持って来い。小さなメスだ。お前じゃないよ。間違えるな」
 と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。
「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」
「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」
「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」
「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」
「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時
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