》を雇って一直線に温泉ホテルに向いました。
 ……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。
 私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の後窓《アイホール》を切り抜いて、あんな悪戯《いたずら》をして行った曲者が、何を目的にした者かと言う事が、あの時のお三人におわかりになるはずはありません。況《ま》して最早《もう》、とっくの昔に大阪に着いているはずの私が、あんな事をしたとお気付になるはずはない。そうして折角三人も揃って思い立たれた今夜の計画を、これくらいの事にビックリしてお中止《やめ》になるはずもない。ただアラビヤン・ナイトのような不思議な災難に驚かれて、ワヤワヤとお騒ぎになっただけで、そのまま先を急いでお出でになったであろう事を、私は九分九厘まで信じておりました。
 ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋の袂《たもと》で自動車を止めて貰いました。
 それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かに洩《も》れて来る校長先生の笑い声を耳に致しました私は、ホット安堵の胸を撫でおろしました。それから直ぐに、音を立てないように板塀を乗り越して、非常|梯子《ばしご》伝いに三階の非常口まで来ますと、あそこから丈夫な銅《あかがね》の雨|樋《とい》伝いに、軒先からクルリと尻上りをして屋根の上に出ましたが、さすがの私……火星の女も、その尻上りをした時に、はるか眼の下の暗黒の底の、石燈籠に照された花崗岩《みかげいわ》の舗道をチラリと見下しました時には、思わず冷汗が流れました。
 そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂に匐《は》い上りました私は、口に啣《くわ》えて来ました手提の中から取り出した細引のマン中を屋根の中心に在る避雷針の根元に結び付けて、その端を自分の胴中に巻き付けて手繰《たぐ》りな
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