この一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。

 本日の午後一時頃の事でした。
 重態の脳膜炎《のうまくえん》患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子《ガラス》窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷《すべ》り込んで来ました。
 跳《は》ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。年の頃は四十四、五でしたろうか。顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁《はなすじ》の左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体《からだ》に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖《スネキウッド》という微塵《みじん》も隙のない態度風采で、診察室の扉《ドア》を後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ち佇《どま》って、慇懃《いんぎん》に帽子を脱《と》って、中禿を巧みに隠した頭を下げました。
 軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。
「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子《サイドチェア》を進めました。
「私が臼杵です」
 しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を利《き》きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣《チョッキ》の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍《そば》の小卓子《カードテーブル》の上に置いて私の方へ押し遣りました。
 そこで私は滑稽にも……サテは唖《おし》の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。
 私は唖然《あぜん》となってその男の顔を見上げました。背丈《せい》が五尺七、八寸もありましたろうか
前へ 次へ
全113ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング