事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」
「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」
「それにしてもあの娘《こ》は、どうしてここに入って来たのでしょう。気色《きしょく》の悪い……」
これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で髪毛《かみのけ》と顔を念入りに直して、コッソリと自宅へ帰りました。
その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。
あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後で嘔《は》きたくなる時のような疲れを感じて、窓の外の太陽の光が妙に黄《きな》臭くて、起き上ろうとすると眼がクラクラして堪りませんので、生まれて初めて終日、床に就いておりましたが、あれは多分、烈しい神経の打撃からだったのでしょう。両親には風邪気味と申しましたので、夕方になって、近所に住んでおられる大学の助教授さんとか言う、若いお医者さんを呼んでくれましたが、別に何処と言って悪い処は御座いませんし、熱も何もなくて、脈も変っていなかったので御座いましょう。お医者様はしきりに不思議がって、首を傾《かし》げておられました。そうして私の左手からすこしばかり血を取ってお帰りになりましたが、あの血の一滴が、校長先生と私とをコンナ破目に陥れる重要な血だった事を、あの時の混乱していた私が、どうして気付き得ましょう。
その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼を醒《さ》ます事が出来ました。それは前の晩に若いお医者様から頂いた睡眠薬のお蔭だったのでしょう。私は寝間着のままお庭に出て、ユーカリの樹の梢に輝く青い青い朝の空を、ゆっくりと見上げる事が出来ました。
けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。
校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。
それが道ならぬ、忌《いま》わしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。それよりも、そ
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